2009/11/11

「悲歌 エレジー」 中山可穂

この手で直接抱きしめてやることはできなくても、何らかの火を熾して遠くからその生をあたためてやりたかった。

たとえば愛を後ろ手に隠して、それと気づかせぬまま、愛を貫く方法はないか。」

ふたつの短篇、ひとつの中篇からなる、中山可穂の新作を昨夜読んだ。このひとのを読むにはそれなりの状況を整えないといけないから、そしてそれがなかなか困難だから、購入してからずいぶん日にちが経ってしまった。

読み終えたら、やはり眠れずに、ようやく眠ったらすぐ朝で、目が腫れていた。私は眠りながら泣いていたのだ。小説世界をそのまま眠りのなかに引きずって、涙していた。

「同世代の作家を、それも、どこかの知らないひとに類似を指摘されるような作家を熱愛していることを公表しないほうがいいよ」

と、何人かの人に言われる。

でも、読んだあとに、本を抱きしめたくなるのは、このひとのだけなのだから、周囲にどう思われてもいい。

彼女は、私が諦めたり、もしかしたら捨ててしまって、実は命にかかわるほどに後悔しているかもしれないものを、胸にきつく抱いて生き、書いているひとなのだ。

冒頭の三行は、三つの物語を貫いている作家の想いが凝縮されているように私は感じた。そして、私もいま、この想いに強く同調する。恋愛だけではない、あらゆる種類の愛情のゆくえをイメージして。

ほぼ同世代で同じ時代を生き、書いている作家の、変容しない核と変容してゆく姿とを、リアルタイムで感じることのできる幸せを、いま、感じている。

外は、こわいほどのどしゃぶり。今日は予定を入れていないから一日外出しないで過ごすことができそうです。

11月 11, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/10/12

■自己撞着と陰影と表現行為■

091012_111001 軽井沢の「アートコントラーダ」、今年は「浅間山発 ヴェネチア行き」、「現代美術を偏愛した男と女」というぞくっとするタイトルに惹かれて出かけ、男「池田龍雄」と女「増田洋美」の、力強い「表現」の姿勢に、震えを体験した。

ひとりで行くのは嫌だからと、娘につきあってもらって、最後に「おつきあいありがとう」と言うと、彼女は「うん、でも、あのガラスのインスタレーションが見られたからよかったよ」と答えた。「怒り、っていう題の、和室にあったあの黒と銀のが、よかったよ、あれは見られてよかった」と。

私は池田龍雄の世界、自分のなかにあって、いつもは表層に出てこないように抑えこんでいる熱くて柔らかなかたまりが、うずくのを、不安と期待のなかで感じていた。

パネルにあった池田龍雄の文章に出逢い、夢中でノートに書き写した。

瀧口修造の文章の引用があった。

***

芸術は自己撞着である。生そのものも同じ。しかし人間の表現行為は厳として存在する。それは絶えず体制をはみ出し、意味の世界の彼方を指すだろう」

芸術が自己撞着であることを悟っていた瀧口こそまさに大いなる矛盾のかたまりであった。

***

芸術も、生も、自己撞着なのだ。自己のなかに激しい矛盾を抱え、その矛盾が擦れあい熱を発する。

唐突に思うのは、そうか、自己撞着という言葉から遠いひとが、もしかしたら、このところ、私が「もっともなりたくないひと」として意識することの多い「陰影のないひと」なのかもしれない。

現代美術を偏愛した男と女の、「表現行為」の場の脇、国道18号線は渋滞していた。みんな、何を目指してどこを目指して、ここを通り過ぎていくのだろう、そんなことを思いながら、丘の上から渋滞する車をしばらく眺めてしまった秋の夕刻でした。

「アートコントラーダ」、詳細はこちらからどうぞ

10月 12, 2009 ■フィクション・ダイアリイ■, :::言葉の泪壺::: |

2009/07/28

「アナイス・ニンの日記」

1933年2月

わたしは恍惚だけを求めて生きたい。少量ずつとか、中庸の愛とか、すべてほどほどといったものはわたしをつめたくしてしまう。

わたしは過剰なものが好きなのだ。郵便配達の背中が痛むほど大量の手紙、表紙からはみ出すほどの本、温度計が破裂してしまいほどのセックス」

発表することを意識していなかったはずがないから、読まれることを充分に意識して書いていただろうけど、それでものびやかに、ブレーキをかけることなく、生き生きと書いているようすが伝わってくる、大好きなアナイスの本を読んでいたら、泣けてきた。

まったく。作品を発表するということは、そういうことがあるということだと知っていても、悪意のある情報をわざわざ届けられたりすると、一日がどんよりと重くなる。

私も、少しずつとか、ほどほどが嫌いだ。私も過剰なものが好きだ。そして、もうたくさん、と一度でいいから言ってみたい。

また雨が降りだした。風がなく、まっすぐに降っているそんな音が、暗闇のなかでしています。

7月 28, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/07/20

「リー・ミラー 自分を愛したヴィーナス」 アントニー・ペンローズ

あなたのことは、あやしいまでに愛してきた。嫉妬に苦しむまでに愛してきた。あなたに愛を注ぐあまり、ほかのものにはまるで情熱を注げなくなった。

そのかわり、あなたがやりたいと望むことはなんでも、私の力の及ぶ限り、やらせてあげようとした。そうすることで、うしろめたさから逃れようとしてきた。

あなたが才能を示せば示すほど、私の愛が正しかったということになり、自分自身の仕事が水泡に帰したことを後悔する気持がなくなる。それどころか、そういった成果のほうが、私には、いっそう満足のできるものなのだ」

マン・レイがリー・ミラーに出した手紙。好きで、ある一時期、暗記していた。入浴しながらふと懐かしく思い出し、本棚から大切な本を取り出して、ページをさらさらと繰った。

暗記していた「ある一時期」も、私はマン・レイの言葉の「才能」に反応していた。そして、それは今も変わらない。

琴線にふれて、心の奥底で深く深く落涙してしまうのは、ラインが変わりつつあるスタイルのことや、まやかしの芳香などではなく、才能にふれた言葉をもらったときなのです。

7月 20, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/06/28

「裸体の森へ」 伊藤俊治

090629_094101ハイヒールがかかとを上げ、ヒップをもちあげ、バストや腰を前面におしだし女体にきらびやかな角度をつけた時に、ロングブーツが足首を伸びやかに固定した時に、ホブルスカートが脚をそろえぴったりとおし包んだ時に、黒いストッキングが脚のラインを強調し、実物以上にセクシーに見せた時に、シャッターは押された」

都会の夜を歩いていたら、シャッター音を聞いた。久々に肌がざわっとした。

帰宅して、リビングに置いたままになっていた本を手にとった。ソファに横になって、カバーを眺めた。

カバーに、冒頭の文章があった。好みの……つまり、図々しく言えばいかにも私が書きそうな文だったから同調して、ぞくりとした。

伊藤俊治さんの本は「シュルセクシュアリティ」にしても「マジカルヘアー」にしても、そして「裸体の森へ」にしても、私の重要なテキストとなっている。なにかの小冊子なんかでも、なにげなく読んでいて、「あ。これ、もしかして」と著者名を見ると、伊藤俊治さんだったりする。いつかお会いしてお話しできたらなあ、と思うひとの一人なのです。

6月 28, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/06/19

「灼熱」 シャーンドル・マーライ

090619_083101人間もまた、我が身に起こる出来事を自分の手で作りだしているのだ。作り出し、呼び寄せ、起こるべきことをつかまえる。人間とはそういうものだ。たとえ最初の瞬間に、自分の行為が致命的だと悟ってもやめられない。

(略)

運命というのは、我々の人生にこっそり忍び込んでくるのではない。我々が開け放った扉を通って入ってくるのだ

主人公の、一人語りが、えんえんと続く物語。男の友情という、現代ではあまり見かけなくなったものをテーマにした物語。

その、くどい語りや、理屈っぽさ、自己陶酔ありの比喩の引用に、(わたしみたいにいやなひとだ、)と苦笑いしつつ、それでも自分と似ているところが多分にあるから、途中でやめられなくて、結局、引き込まれて、休憩なしで読みきってしまった。

久しぶりに、出逢った感あり。

ラインを引き、ノートにうつしたい文章がたくさんある、そういう小説だった。「生きるということは、耐えることなのだ」という著者の声が強く胸に響くような、そういう小説だった。

このところ、微熱モードが続いている。うみだしたい、という欲求があるのが感じられる。逃げないように、慎重につかまえておきたい気分の、朝です。

6月 19, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/06/12

「人間の覚悟」 五木寛之

「人間は、たとえ意識がないように見えても、魂、というとおかしいかもしれませんが、目に見えない、科学的に証明できないものを持っているようです。

それを含めて私たちはその人を介護し、ともに抱えこんで生きていくことで、人間の全体的な生存状態が確立されるのだろうと思います。

だからこそ、人は常に自分にとっては厄介な、自分以外のものをケアしながら生きていかなければならないと私は考えているのです」

図書館で借りてきて、側に置いておきたくなって、購入した一冊。

長い間、意識がない状態のままの、あのひとのことを時々(冷酷だ)、思い出して、意識がないまま生きながらえるのをきっと嫌うだろうあのひとの痛みを感じてきたけれど、もしかしたら、それは違うのではないか、と思った。「違わないかもしれないけれど、違うのかもしれない」と思った。

そういう意味で、とても新鮮な本だった。

いま、机の上のメモには、自らが命をかけて表現したいものは何か? という殴り書きがある。

「人間の覚悟」には「伝えたい」というエナジーが、たしかにあった。

老いとか死とか鬱とか、そういうテーマを扱いながらも、静かな人間肯定があって、読後感は安堵感に、とても近かった。

6月 12, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/05/11

「坂口安吾全集 14」

090511_113501 すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。その人その人の容器に順って、悲しさを歌い、苦しさを歌い、悦びを歌い、笑いを歌い、無意味を歌う。それが一番芸術に必要なのだ。これ程素直な、これ程素朴な、これ程無邪気なものはない。この時芸術は最も高尚なものになる。

昨年末からずっと続いていた緊張の糸が、ある日、ぷつりと切れてしまった。切れたな、と感じられるほどに、切れた。それは一つの原稿をあげたという具体的理由があるのだが、瞬間に体調を崩した。そして風邪をひいた。43回目の誕生日は、ほとんどベッドで過ごした。それから一週間ひきずった。その間も仕事をしたけれど、あまりのだるさに精神が落ち込み、あぶないな、と思った。そこで、あとさきのことや、さしあたっての仕事のことも考えず、できるだけ眠り、許される限りベッドにいることにした。

ある量の眠りの後、緊張していた間ずっと、読書から遠ざかっていたことを思い出し、さらに、猥雑な用件が近辺にうずまいていることもあって、自分の立ち位置を確認するために、本棚をじっとにらんで、二人の作家の著書を選んだ。今回は、須賀敦子と坂口安吾。

冒頭のは、坂口安吾の「ピエロ伝道者」から。

――― 一途、ほとばしっているか。

つきつけられたようだった。

一冊読み終えてすぐに、むさぼるように、須賀敦子「遠い朝の本たち」を読んだ。

日に日に緑濃くなる軽井沢。本を読んで泣いたのは久しぶりでした。

5月 11, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/04/13

「男と女 愛をめぐる十の対話」 

090413_102601 「女性は時に男性と、その財産のために結婚する。ただし、普通は念のため、あらかじめその男性に恋をしておくものだ」(パヴェーゼの日記より)

フランソワーズ・ジルーの本が読みたくて、みつけて中古で購入した。さまざまな引用があり、私好みで、とっても楽しんでいる。あたまでっかちな、じゃなくて知性に満ちた二人の対話(相手はベルナール=アンリ・レヴィ)。ああ、こういう言い回しも続けると、かなりくどいのだな、という「他山の石」状態での読書でもある。

冒頭の言葉を今回引いたのは、このようなものの考え方から最近、遠ざかっているようなかんじがしたからだ。

「物事の本質を突いている」といってもいいし、「理屈っぽい」といってもいいし、「イジワル」といってもいい。

時間に追われる生活は嫌いだ。大嫌いだ。「忙しい度=人生の充実度」という考え方にはうんざりする。

なのに、いま、時間に追われている。いろんな役柄を演じるのはもう嫌だ、と放り投げたくなる瞬間もある。

そんななかでも、少しずつ季節が変わり、サンルームに置いた、花が咲きました。

4月 13, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/03/25

「ダイング・アニマル」 フィリップ・ロス

「そして、喜びこそが我々のテーマなのだ。短い人生のあいだで、どれだけ個人のささやかな、プライヴェートな喜びに真剣になれるか」

社会と関わる活動、仕事、成功。

そこにばかり目がいく人と、日常のなかに目がいく人とがいる。

ダイング・アニマルの語り手の男は社会的に成功している。

趣味があり、それはピアノをひくことだ。「個人のささやかな、プライヴェートな喜び」「真剣になれる」喜び。彼の場合はピアノだけれど、私の場合は何だろう、と考えた。

もちろんそれだけで満たされないのは、既にわかっているけれど、「ささやかな、プライヴェートな、真剣になれる喜び」、そこに人生の大切なポイントがあるように思う。

と思ったとき、人生に対する捉えかたが変わってきていることに気づく。

今日の軽井沢は雪と霧。白く静かな一日でした。

3月 25, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/02/04

「人生は廻る輪のように」 エリザベス・キューブラー・ロス

090204_082101 「しかし、力なく横たわるセップリの姿をみながら、私は未来はあてにできないと考えていた。人生とは、あくまでも現在にまつわる事柄なのだ」

(*セップリとは死に瀕した義兄)

どこからどうつながって、この本の購入にいたったのか、覚えていない。きっと何かを調べていて、このエリザベス・キューブラー・ロスのことを知り、強烈な興味を覚えたのだろう。

世界的ロングセラー「死ぬ瞬間」でしの概念を変えた、魂の名医。……とにかく、とてつもなく有名なひとで、その功績は、とてつもなく大きい。その最初で最後の自伝というのが本書。

年が明けてから、いい調子で進んでいた仕事が、ここ数日、うまくいかなくて、なかなか集中できなくて、昨夜、「いいや、この本読んじゃおう!」(今の仕事がひと段落したときの楽しみにとっておいてたのだ)と読み始めたら、とまらない、というか、その世界にひきずりこまれてしまって、まいった。

なんだか身体が、きつくなってきて、途中で休んだ。今もそれからすすんでいなくて、三分の一が残っている。

なんのために生かされているのか、周囲で起こっている、大小さまざまな事柄は、私に何かを伝えているのではないか、やるべきことを教えようとしているのではないか。

なーんてことを考えっぱなしでの読書だから、身体もきついわけだ。

しかし、一夜明けた現実、ホルモンにいいように翻弄されて、神経過敏になっている状態で、小さなことに「きっ」とし、その犠牲者となった娘。帰ってきたら、ごめんね、と言いたいです。

灰だか風花だかよくわからないものが、ちょっと舞っている朝。

2月 4, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/01/25

「それでも人生にイエスと言う」 フランクル

090125_105701 「人間として生きている意味を疑うと、絶望にいたるのは簡単です」

……そのとおり。

生きるとは、問われていること、答えること

―――自分自身の人生に責任をもつことである。」

……はい。

「なにはともあれ苦悩は人生そのもののうちに含まれているのです。ですから、まさに苦悩しないことが病気である場合もあります」

……なるほど。

「私は眠り夢見る、生きることがよろこびだったらと。私は目覚め気づく、生きることは義務だと。私は働く――すると、ごらん、義務はよろこびだった。(タゴールの詩からの引用)。」

……忍術のようだ。

衝撃的な一冊の本『夜と霧』のことも、『それでも人生に・・・』の本のことも、以前に書いたと思う。

今回、必要があって、ぱらぱらっとページを繰っていて、気持がふと、らくになったのは、ぜんたいに

「そういうわけで、生きるということは、ある意味で義務であり、たった一つの重大な責務なのです」

があったからで、こんなふうに、決めつけられると、「はい」と神妙に頷いて、色んなことを疑うことをしたくなくなる。

これ、悲しいかな、持続しないので「ちっ」と舌打ちしたくなるけれど、ときどき、開いてみるのもいいかもしれない、と思いました。

1月 25, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2008/11/28

「グスタフ・クリムト」 ジル・ネレー

081127_105901 「おまえの行動と作品が、万人に愛されることがかなわないのなら、少数の人間を満足させよ。多くの人間に愛されるものは、ろくでもないものだ」

「ヌーダ・ヴェリタス」(1889)の上部にかかげられたシラーの詩句。

ヌーダ・ヴェリタス。裸の真実。これは、クリムトが従来の古典的な美術界への宣戦布告とした描いた絵。

タッシェン出版のクリムトの画集。ひさびさに開いて、いきなり目にとびこんできた(ほんと)シラー。

以前は、「ここ」にはひっかからなかった。「ここ」とは、「少数の人間を満足させよ」。

これ、万人に愛されるものを意図的に作りだすよりも難しいのでは、と思うのです。

11月 28, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/11/27

「快楽は悪か」 植島啓司

081127_080201子どものころからの問題は全部、世界に順応して幸せに暮らすことが不可能なことが原因だ。アウトサイダーの感覚だよ。だれかがドラッグや酒に手を出すとしたら、それで少しは順応できるからだ。だから誘惑に負けるんだ。酒は壜入りのドラッグだ。

自分を落ち着かせてくれるものは何でも常習の危険がある。セックス、食物、仕事、成功、何をとっても、それで安定できれば常用するようになり、依存して、人生が破滅することもある

これは俳優のアンソニー・ホプキンズの言葉。

植島氏は次のように続ける。

「この短い言葉のなかには重要な真実が隠されている。われわれは実際、何か大きな問題が起こらないと直視しようとしないが、意外と世界と順応するのに日々骨を折っているということ」

私だけではないんだ、と、自分に言い聞かせなければ、すこし息苦しい今日このごろ。そして私にとっての「世界と順応するための『何か』」とは何か?

そんなことを考えていたら、以前に、ある人から、「あなたは、自分とはもっとも遠いところにあると思っているでしょうけれど、ワーカホリック(仕事中毒)です」と断言されたことを思い出した。

このところ、こもりモードが続いている。極力外出せず、仕事を中心とした生活スタイルは、落ち着く。「常識」というものに、疑問符を投げかけ続ける毎日を送っていると、周囲を見渡して、その居心地の悪さに愕然とする。

それでもそのなかを、なんだかんだ言いながら、四十年以上も泳ぎ続けているわけだから、私もじゅうぶん愚鈍厚顔無神経でもあるわけで……なんて考えていたら……

これって「毒をもって毒を制す」だ!

すごい発見をしてしまった!

となり、落ち着いて気分よく過ごせたのでした。

*注*「毒をもっと毒を制す」=かなり悪い病気には毒性の強い薬で治療したり、イケナイことをおさえるためにイケナイ何かをつかったりすること、ですよね。

11月 27, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/11/25

「不道徳教育講座」 三島由紀夫

お節介は人生の衛生術の一つです。われわれは時々、人の思惑などかまわず、これを行使する必要がある。(略)

お節介焼きには、一つの長所があって、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、しかも万古不易の正義感に乗っかって、それを安全に行使することができるのです。

人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないという人の人生は永遠にバラ色です

痛快な皮肉にみちた、お節介についての文章を今回、拾ってしまったのは、最近、知人(年下の、仕事関係で出会った、かわいいひと)から聞いた話が原因だろう。

知人は、ある年配の女性からの「親切」に困惑しているのだそうだ。

「あなたの味方だから言うんだけど……、から始まる一連の、人生教訓に満ちたアドバイスを聞きながらわたしは思ったの。これは実のところ、彼女の思想のおしつけに過ぎなくて、彼女はわたしのことが気に入らないのだと思う。このところだんだんひどくなってゆくのよ。彼女、子育てもひとだんらくして、どうも暇らしいの。自分の子育てに自信をもっていて、わたしが仕事を優先しすぎる、それでは子どもがかわいそうだ、なんて本気で言うのよ。どうしたらいいでしょう?」

「暇な女性」。もう、これだけでかなり手ごわい。お節介……、いいえ、「親切」に注げるエナジーの量が、私たちとはくらべものにならないからだ。

私はなるべく、自分のことを気に入らないだろうと思う人々とは接触しないように気をつけている。もともと人間不信なところがあるから、気の合う人、信用できる人に、もし出会えたならとってもラッキー。たいていは、バツ、それが当然と思っていれば、病に倒れる率を減らすことができる。

私は年下の知人に、そのようにしか言うことができなかった。

081125_075101 昨日、軽井沢に雪が積もりました。車のタイヤを交換していないので、朝出かけるのはさすがに恐く、夫を駅まで送ることができなかったので、タクシーを呼びました。

11月 25, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/11/21

「偶然のチカラ」 植島啓司

081121_085601 「未来が見えないとき、いったいどうしたらいいのか」

「そんなときには、しゃにむに自分の意志を貫こうとしないことが肝心だということ、「自分で選択するべからず」ということである。

困難なことにぶちあたったとき、必要以上に自分の力に頼るのがもっとも具合の悪いことで、見えてきた状況に従って動けばいいのである。そして物事の是非を判断せず、「世の中にはどうにもならないこともある」と一歩引いて考えたい。世の中には思うようにいくことのほうが少ないのだから」

『性愛奥義』」でお世話になっている(?)植島氏の本。幸福のための7つの新法則、などとあるが、大量生産されているハウツー本では、まったくなく、奥深く、ミステリアスで、ユーモアに満ちている。

そのため、それを理解できない頭を持ったものには、難しい。すらっと読めてしまうけれど、難しい本なのだと思う。私は半分も理解できていない。

それでも、本書の紹介文、

人生に起こるさまざまな事柄――それらは、偶然のようにもみえ、一方では運命とも思える。不確実な現世のなかで、身に降り掛かる幸不幸を、私たちはどう考えるべきなのだろう。・・・以下略」

に引き寄せられて購入した私は、そういうシーズンにいるということだから、植島氏の言葉が身に染みた。

「選択」しすぎて、すこし疲れたときには、植島氏の「自分で選択するべからず」を人生に、取り入れて、やりすごすことも、それは「謙虚」という意味において、大切なことなのかもしれない。

081121_091301

軽井沢、初雪も降って、氷点下の朝が続いています。執筆こもりモードも続いています。からだがかちかちになるので、フラメンコでも踊ろうと、DVDつきの本を購入してみました。昨日届いたばかりです。

11月 21, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/11/14

「快楽主義の哲学」 澁澤龍彦

081113_212301 道徳なんて、まったく相対的なもので、その国や地方の風俗や習慣から生じたものであり、もっと簡単にいってしまえば、偏見の結果にほかならないのです。

「偏見をなくせ。」ということは、「道徳をなくせ。」ということと、ほとんど同じです。道徳教育とは、偏見教育のことです。

ということを重々承知した上で、道徳うんぬんを論じないと、道徳というものは、人間関係をゆがませるもの、あるいは野蛮な圧力以外の、なにものでもなくなる。

ということを重々承知しているひとは、安易に、あるいは無邪気に、あるいは愚鈍に、「道徳」という言葉を使わない。ぜんぜん自覚のないひとが、好んで使う。さいきんつくづく思う。日本の場合、道徳という言葉の対極にあるのは「ユーモア」ではないかと。

ふたたび、澁澤龍彦。

心理学的な分析によると、ユーモアは、外界からの苦悩をおしつけられることを拒否し、自我を優越的な地位に引きあげて、自分のまわりに厚い防御の壁を築き、(略)

こういう心理的な操作を自由になしうる人が、ユーモリストと呼ばれます。ユーモリストは、人生の失敗にくじけない、強い柔軟な精神をもった快楽主義者です

やっぱり美しいのはモラリストではなく、ユーモリスト。ユーモリストのほうが、難易度、くらべものにならないほど高くて、だけど、私は好きです。

11月 14, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/11/13

トニー・レオンのことば

「自分のやった役柄からは永遠に離れることができないし、その悲しみから逃れたことはない」

ウエブの記事、胸にずんと響いて、ノートに書きとめた。

客観的にみたスケールはぜんぜん小さいけれど、私の心の奥にいつもある小さな覚悟みたいなものと共鳴したように思った。

すべてを帳消しにしたい、という衝動がつきあげてくることが、ときどき、シーズンによっては頻繁に、あるけれど、やはりその「悲しみ」を引き受けることは、いくら私がへなちょこだとはいえ、自分自身の人生における礼儀なのだと心得たい。

軽井沢は朝、車が凍るようになりました。最高気温も一桁の日が多くなっています。そして落葉がたえず舞っています。美しい。

11月 13, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/10/14

「窓ぎわのトットちゃん」 黒柳徹子

081014_102801 「文字と言葉に頼りすぎた現代の教育は、子どもたちに、自然を心で見、神のささやきを聞き、霊感に触れるというような、官能を衰退させたのではないだろうか?

(略)

世に恐るべきものは、目あれど美を知らず、耳あれども楽を聴かず、心あれども真を解せず、感激せざれば、燃えもせず・・・・・・の類である」

トットちゃんが通っていた小学校の校長先生の言葉。

あるとき、なんとなしに、娘はトットちゃんに共感するのでは? と思い、「青い鳥文庫」の本を購入(娘のピーターラビットの図書カードで)、案の定というか、予想以上に、彼女は、はまった。

大笑いしたり、あるときは、涙したりしながら読んでいた。寝食を忘れて、というのに近い状態で。同時期に夫が図書館で同書を借りてきて読んだ。娘が読み終わった後、私が読み始めた。以前に読んだことはあるけれど、ぼんやりとしか覚えていなかった。

心にしみまくっている。おそらく、昨日の記事、キンゼイ博士がタマバチの研究で気づいたことと、深く関係しているのだろうと思う。

そして、冒頭の文章で、「官能」が、このようにみずみずしく使われているのに、はっと心を突かれた。

081011_102901 イヴ・サンローランから「ヴォリュプテ」という名のルージュが出たから買わなくっちゃ、なんたって「ヴォリュプテ=官能的快楽」だもん。

と、銀座のデパートで、何色か試し、美しい色のルージュを購入して、うれしくて、帰りの新幹線のなかで、写真などを撮る自分が、とつぜんに、ひゅるる、と色褪せてかなしかったりするのですが、このように私は、ゆらゆらとあちらこちらによろめきながら、人生を歩んでゆくのでしょう。

10月 14, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/10/01

「マジカル・ヘアー」 伊藤俊治

081001_184301 「世界のあらゆる地域でおこなわれている髪の維持と美化への深い配慮は、美しい髪が女性の容姿における美の理念と緊密に結びついていることを示すばかりではなく、髪が性愛の刺激物として重要な役割を演じてきたことを意味している」

・・・だからウイッグがどんなに素敵であろうとも、「なんだ、ウイッグか」になってしまうのだろう。「ずる」みたいで。

髪については色々なところで色々なかたちで書いてきたけれど、大切な文献がこれ。ぼろぼろになってしまった。パルコ出版、1987年。

見事に美しく凝ったデザインの本で、3605円でも高いと思わなかったことをよく覚えている。こういう本には作り手の情熱が息づいていて、ページを繰っているだけで、エナジーが湧いてくる、そんな気になれる。

「いい時代だったんだよ、そのころは、出版業界も今とは違っていてね」

という問題とは、根本的なところで、きっと、違う。

さて、もともとそんなにない自信が、ますますなくなって、だから美容院へ。美容院が苦手な時代もあったけれど、中軽井沢のシエスタさんと出会ってから、行くのが楽しみなところとなった。

気心知れたひとに髪を美しく整えてもらうという一連の行為には、やさしい慰撫が流れて、今日はいい一日だった、と思えて、だから今日一日は成功です。

10月 1, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/09/30

「プレヴェール詩集」 ジャック・プレヴェール

080930_205701 「とても静かに飛ぶ鳥

血のように赤くて暖かい鳥

とてもやさしい鳥 ひとをからかう鳥

だしぬけにこわがる鳥

だしぬけにぶつかる鳥

ほんとうは逃げたい鳥

孤独な狂った鳥

ほんとうは生きたい鳥

ほんとうは歌いたい鳥

ほんとうは叫びたい鳥

血のように赤くて暖かい鳥

とても静かに飛ぶ鳥

それはあなたの心だ 美しいひと

ひどく悲しげにあなたの心がはばたくのだ

こんなに重くて白いあなたの乳房の内側で。」

現実の身の無力さに絶望する夜は、『鳥さしの唄』にすがって、誰でもいいから、この詩を私の耳元で囁いて欲しい、と思う。似合わなくてもうそでもなんでもいいから、と思う。

心のなかがどのように縦横無尽に動こうとも、それは、世の中を歩くために必要な価値として認められない。四十を過ぎて何を言ってんだか、と頭ひっぱたかれそうですが、顔のしわは増えても体力は衰えても、この部分だけが老成しないことにあらためて気づきました。

9月 30, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/08/19

「魚の泪」 大庭みな子

「偶然つかんだ居心地のよい場所に根が生えてしまうと、ひとはつまらない退屈な言葉で、自分の立場を用心深く守ることしか言わなくなります。

たとえ、それが卑劣なことだとわかっていても、ひとは不器用に、哀れに自分を合理化して、尊大ぶった処世訓を先輩顔にたれるようになります。

わたくしはそんなふうになりたくない。わたくしは生涯放浪する魂をもちつづけていたい、と思っています」

「放浪する者の魂」というタイトルのエッセイ。

机の上を整理していて、手にした文庫。ぱらぱらっとページを繰って、目をとめる。息をとめる。

代弁であり示唆であり警告であり、そして真実である。このような文章を、私は今夜は胸にだきしめて、痛い痛い、と言いながら眠りにつきたい。

8月 19, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/08/18

「日本論」 坂口安吾

「すくなくとも私のような頼りない人間は、自分の作品のあとでのみ、漸く自分の生活が固定する、或いは形態化する、という感が強い」

創作の匂いのない生活が続くと、このような飢餓感に襲われるということは、まだ大丈夫だな、とひとりで安心している今日この頃、机上に積まれた本を横から眺めて、ページの折られた箇所がないのが続いていることにがっくりし、そのなかで、一冊だけ、何箇所もページが折られている本を見つけて、抜き出した。

坂口安吾の「日本論」だった。

「文章その他」というそっけないタイトルのエッセイのなかで、彼はジイドの言葉を持ってきて、自分と作品とのかかわりについて書いている。

ジイドは「小説家が己れを知ろうとすることは甚だ危険なことである」と、「なぜならもし小説家が己れを見出したなら、彼は全ての観察に己れを模倣することになってしまう。そして自分の通路と限界を知った以上は、それを越すことができなくなる」

だから、

「真の芸術家は彼が制作するときには常に半ば自分自身のことには無意識である」

「彼はただ作品を通してのみ、作品に依ってのみ、作品の後に於てのみ、己れを知るようになるのである」

坂口安吾は「これはホントにそうだと私は思った」と言い、冒頭のような文章を続ける。

これは、作品を書くことなしでは、リアルな生活でさえ、それを実感できない、私なりに大きく飛躍させれば、「書くことなしに、彼自身の生はありえない」という、一種悲痛な、しかし誇らしい、告白なのではないか。

創作から離れた、しかし「けっして無意味ではない、と自分に言い聞かせるし、おそらくそれは真実である」生活のなかで、鈍っていた感覚がずきんと胸に響いたようで、生きている実感があった。

どんよりとした曇り空さえ美しい。思いきり寝坊をして、冴えたようなまだ眠っているような感覚のなかで、静かにひとり感動しているのでした。

8月 18, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/07/24

「ベートーヴェンの生涯」 ロマン・ロラン

「・・・・・・無限の霊を持っている私たち有限の人間どもはひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこういえるでしょう――最も秀れた人々は苦悩を突き抜けて歓喜を獲得するのだと・・・・・・」(ベートーヴェン)

ベートーヴェンにすっかり夢中になってしまったのは、作品のために必要だったからだけではない。ずしんと、我が身に響くものを、この偉大なる芸術家がもっているからだ。

ロマン・ロランは情熱をもってベートーヴェンを書いている。

***

「不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す――それを世界に贈りものとするために。

彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す。そのことを彼は次の誇らしい言葉によって表現したが、この言葉の中には彼の生涯が煮つめられており、またこれは、雄雄しい彼の魂全体にとっての金言でもあった――

『悩みをつき抜けて歓喜に到れ!』

***

苦悩をつき抜けて歓喜に到れ!

これが私のこの夏のテーマです。頭から離れないのです。何かの拍子に、まるで、生活の合いの手みたいに、この言葉が頭に響くのです。

このところは各地で猛暑。軽井沢も暑いようです。今日も最高気温が29度なんてラジオで言っていました。

けれど日中、家のなかにいれば、汗をかきません。我が家はよっぽど暗い、いえ、涼しい家なのでしょう。そんななかで、『運命』を大音量で流しています。

7月 24, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/06/30

「王女の涙」 大庭みな子

「自我の炎をこすりつけてころげまわるような生き方が、自分自身に連なるものとして尖端にあれば、自分自身は平穏に暮せる。燃えている炎は平穏な部分をどのように感じているのであろう。

 その中間で、尖端の部分だけを見つめ、地下に根を張って、吸い上げるものの力の在りかたは気にならず、ひたすらゆらめく炎ばかりをみつけて不幸になっている人の姿は、今では多少の鬱陶しさを混えた哀切なものに映る」

 いまだって、もちろん(と威張ることではないが)平穏無事に暮しているわけではないけれど、ずっしりと張った根がひっきりなしに吸い上げているものには、愚かなほどに鈍感で、炎ばかりに敏感になっている姿が、すこしだけ、過去の自分として映るようになった、ように感じた。

唐突だけれど、ひところ流行った「自分探し」という言葉の胡散臭さを思い出した。自分探しをしている自分は、ずっしりと根を張り、何かを吸い上げて生きている。そうしたままで、ゆらゆらと揺らめく炎を見るように、「ほんとうはこうなんだ、わたしは」と思いたい自分を「本当の自分」として、それを探している、そんなイメージ。

気が散りまくる季節がやってこようとしているなか、なんとか集中して、雑念にふりまわされず、今とりかかっている一つの作品を、創り上げたいです。

6月 30, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/06/12

「ベートーヴェン」 平野昭

「牧人が歌うのを人が聞いて、私には聞えなかったときには、あわや自殺しようとしたこともある。しかし私の芸術だけがそうした思いを引き戻した」

「自殺により生涯を終らせないできたのも、徳と自分の芸術のおかげだ」

(ベートーヴェン)

このところベートーヴェンのうずのなかにいる。あらためて『運命』という楽曲に感動する。

生きることへの不安と肯定とやりきれなさと美しさと優しさと厳しさと……うねるように次々と襲ってくる。しらばっくれていられない、そういう音楽だと思う。

シューベルトが「モーツァルトは誰でも理解できるけれどベートーヴェンは違う。ベートーヴェンを理解するには優れた感受性が必要だ。失恋などで悲しみのどん底にいなければならない」(←私の記憶によるので細かいところは違うかも)と言ったようだが、うなずける。私に理解は難しいが、突然にベートヴェンをもとめ、聴きまくっているということは……。

といつもの自己分析がはじまる。好きなのだ、こういうのが。

ところで、さっき、ある勧誘の女性が来た。突然に尋ねてくる人は本当に困る。私は今日は夕刻まで化粧をしないで過ごそうと決めていたので、素顔を、他人にさらすことになった。それがすごく嫌だ。叫びたいほとに嫌だー、と思っている人がいるということを彼女たちはきっと知らない。

苛立ちながら、大音量で、今度は“最期の”『弦楽四重奏曲』を聴く。あっという間に玄関から隔てられる。これこれ、これよ、と目を閉じる梅雨の午後なのでした。

6月 12, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/06/03

「インセスト」 アナイス・ニン

41ghnupigpl_sl500_aa240_ 「いつも。私を窒息させるのは、そうあるべきだという理想なのだ。」

アナイス・ニンの日記!

待望の本。

宝物の本が一冊増えた。「読み終えるのが惜しい」と痛切に感じる本。大切に一読し、それからもう何度も読み返した。

出版社と訳者の杉崎和子さんに、拝みたいくらいに感謝している。(きっと「軽井沢夫人」も大喜びでしょう)

何度も「アナイス・ニン節」ともいえるフレーズがあり、ぞくぞくした。冒頭のはその一つ。もうすこし厚く引用すると次のようになる。

「ロマンティックで古い人間の私は、そこに宿命を感じ、強い力を持つ過去を棄てられずに、動きが取れないでいる。たとえ二人の芸術家が新たに誕生するという大儀があっても、人間一人を葬り去るなんて、できるはずがない。

際限のない自分の善良さに、私は慄然とする。私は自分のためには生きていない。動きを封じられ、自己犠牲を続ける私は、いつも境界線の上で凍りついている。いつも。私を窒息させるのは、そうあるべきだという理想なのだ。」

(「人間一人」は夫のこと、「二人の芸術家」はアナイスと恋人のヘンリー・ミラー)

他のアナイス・ニンの著書でも感じていることだけれど、杉崎和子さんの言葉の選び方が私はとても好きだ。そして、「解説」も大好きだ。

ひとつの物語をこねくりまわしていたら、いつの間にか梅雨入りしていた。雨に濡れた緑が、おそろしいくらいに鮮やかです。

6月 3, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/05/16

「マイ・リーズン」 キーディー

「I believe you're my reason to live」

「モディリアーニ 真実の愛」をDVDで観た。

まったくのフィクションらしいし、モディリアーニの映画といえば、やはりジェラール・フィリップ。そしてジャンヌ役のアヌク・エーメ。そう、「モンパルナスの灯り」

だから、ぜったいぜったい、観ないほうがいいような気がして避けていたけれど、突然観たくなった。

結果は、やはり、私にはぴんとこなかった。

けれど、エンディングテーマにやられてしまった。久々に音楽でこんなにこころが揺さぶられた。もちろん物語のラスト、ジャンヌの後追い自殺にかぶるから、それもあったのかもしれないけれど、私はほとんど一日中、DVDでそのシーンを繰り返し再生して、音楽を聴いた。そしてネットで検索、それがキーディーという歌手の「マイ・リーズン」という歌なのだと知って購入、今朝メール便で届き、ずっとひたっている。

CDについている対訳では、

「you're my reason to live」 あなたは私の生きがいなの

と、あるけれど、やはりここは英語のまま、ニュアンスにまみれて、こころのなかに落としたいところだ。

生きがいとはちょっと違うように思う。

それにしても。つとめて冷ややかな視線で世の中を見渡してみても、あきらめたようなため息をついてみても、「やっぱり、いまいちな映画だった」とつぶやいてみても、ジャンヌが、モディリアーニを追って窓から身を投げたシーンで号泣して、感動というものは、なにか自分をしばっている鎖から思いっきり飛び出したところにあるのだなあ、と深く感じている。

いま書いている物語のBGMはもっぱらシューベルトの一曲で盛り上げているのですが、「マイ・リーズン」を加えます。

軽井沢は緑が眩しい季節になりました。手を入れていない庭はぼうぼうですが、それでも緑が美しいというだけで、涙が出るほどに胸をうちます。これも「マイ・リーズン」効果なのでしょうか。

5月 16, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/04/24

「啼く鳥の」 大庭みな子

「彼女は日常生活でもし自分が感ずるままのことを言ったり、したりしたら、それは攻撃的な、怒りと憤懣と悲しみに充ちた露悪的なものになり、他人を不愉快にし、その結果、みんなに危険な人間だと思われるに違いないと思ったので、嘘をつきつづけるしかなかったのだ。

嘘とはつまりこんなことだ。いやなことでも「はい」とすなおに言ったり、笑いたくないときでも笑ったり、つまらないことでも一生懸命やって、更に一生懸命やり続けることで、自分の頭を麻痺させてしまうというようなことである。

だがもちろんそんなことはとり立てていうほどのことはなく、見まわせば彼女の周囲の人びとは多かれ少なかれそれに似たようなことをしている感じだったので、しまいにはこの狸と狐の化かし合いのような生活というものが、やはりそれなりに何らかの意味があるのであろうと考えないわけにはいかなかった

以前にも紹介したことのある本から。

http://anais.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/index.html

頻繁に思い出す箇所で、ちょうど昨夜も寝る前に、頭にあった。そこに親友から携帯電話にメールがあり、大庭みな子さんを読んでいます・・・とあったので驚いた。

ところで、今回は以前引用しなかった、ラストの部分に反応している。

「何らかの意味」があるのだろう、と私も、考えないわけにはいかない状況になっているのではないか。

そんなふうに思い、かなり衝撃を受けるという形での反応。

とても白色に近い灰色の空から、雨がぼたぼたと落ちてきている、閉ざされ感ひじょうに高い、落ちつく朝です。

4月 24, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/04/07

「ポトマック」 ジャン・コクトー

「あり得たかもしれないもの、省略されたものの、神秘な美しい重みを君は知っているか?

余白と行間、アルジェモーヌ、そこには犠牲の蜜が流れている」

何年も前に、朝日新聞のコラムで知って、当時発行していたメールマガジンで紹介したことがあった。

このところ、このフレーズが頭をぐるぐる回ることが多く、「ポトマック」を読んだ。けっして感動したとか、特別な小説だ、とか言えない一冊だけれど、やはり、何箇所かラインを引かねばならない箇所があるのは、コクトーだからだろう。

たとえば、

「君のなかで世間が非難するところのものを、十分に手を入れて育てあげたまえ、それがほかならぬ君なのだから」

という一文。

これなどは、今日はとても胸をつかれた。

コクトーが言うようなそれを、十分に手を入れて育てあげたのは、二十代の半ばからの十年間くらい。せっせと育てたように思う。

そしてそれ以後は、違う時代がやってきて、世間に非難されることが少ないような言動をとるようになってきて、ときどき不安になるから、大丈夫、外側と内側は別なのだから、内側の自分自身を大切に育て続ければ、自分は枯れないのだと、必死に言い聞かせながらきたけれど、それでは全然大丈夫ではないことに、ここのところ気づき始めている。

人間はそんなに弱くはない、とも思っているけれど、そんなに強くないのも事実なのだ。少しずつ、外側に内側が浸食されている。

雨の音が懐かしい。ああ、春になりつつあるのだなあ、と思える夜です。

4月 7, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/04/04

「無限の網」 草間弥生

「一日ごとに早くなっていく加速度的な時間の中で、与えれた枠の内側で必死になってみてもたかが知れている、と考えることはおよそ空しく、無意味である・・・・・・(略)

 人生は真実素晴らしいとつくづく思い、体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。

そして、そのために如何なる苦労をしても悔いはない。私はそのようにこれまで生きてき、これからもそう生きてゆく」

日本の芸術家の実像にせまる、ニアイコール・シリーズで草間彌生のドキュメンタリー映画を観た。

それがあまりにおもしろく(何度笑ったことか!)、草間彌生のすっかりファンになって、かぼちゃの携帯ストラップを記念に買っただけでなく、アマゾンで自伝を買った。

熱く激しい人生に圧倒された。

以前ならば、ブラボーブラボー、芸術家はこうでなくっちゃ。

と、手放しで喜んだのだろうが、今は、もちろんそういう気持もあるものの、

「しかし、これができるということは、ある意味、ある部分、かなり鈍感にならなければ無理だろう」

とも思う。

もちろんそのアンバランスさがすべて芸術家の魅力になるのだけど。

そしてなんだかこのところ、バランスよくできてしまっている(自己評価だが)自分自身の凡庸さに、本気で落ち込んだりしている。四十をすぎると、自分自身が見えてきてしまって、でも、「もしかしたら」という幼い希望みたいなのも残っていて、すごくやっかいです。

4月 4, 2008 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

「命の器」 宮本輝

「私を溺愛し、どんな人間でもいい、ただ大きくなって欲しいと念じつづけてくれた人がこの世にあったということを、筆舌に尽くしがたい感謝の念で思い起こすのである」

胸をつかれた。

随分昔のこのエッセイ集を読み返すのは、もう三度四度目くらいなのに、自分のなかの迷いをなんとかしようと本棚から取り出して、読み始めて、今回はこの部分にしみじみと感じ入ってしまった。

本来そうでありたいし、そうなのだ。

なのに、私はなんと余計なものを、求めていることだろう。

雪がふったり、ぽかぽかしたり、気まぐれな軽井沢に翻弄された春休みが終わりました。

4月 4, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/03/12

「サイゴン・タンゴ・カフェ」 中山可穂 

「過剰な愛はいつだってたやすく過剰な憎悪にすりかわるものだから」

一般受けはしないけれど一部の熱狂的ファンを持つ作家が、これまでとは違う形の小説を書いて、それが世間的な評価を受け、一方で熱狂的なファンから激しく抗議されたときのことについて語った言葉。

一方通行の愛の場合は特にそうだ。これは恋愛に限らない。血縁関係にあるもの、友人知人・・・。

過剰はよくない。自分が過剰にそれを抱くことを常に警戒しているせいか、私は少し足りないくらいの女になりたいと思うことがある。いろんなものが足りない、そういうひと。

さて。

待望の新作は、タンゴのリズムのなか紡がれた五編からなる小説集。

表題ともなっている五編目の作品が、とてもよかった。心が熱くなった。

そして五編目の作品を読んで、それまでの四編が違った色彩を帯びてくるという仕掛け(これは私が勝手にそう受け取ったのかもしれない)に、しみじみと感じ入った。

昨日は軽井沢も日中は十度を越え、へんてこな春陽気でした。冬から春への移行期、私が一年のうちでもっとも嫌いな季節です。

3月 12, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/03/10

「いつか眠りにつく前に」

「母親は、何をしていても、子どもを傷つけてしまうもの」

昨日、新宿武蔵野館で観賞。

朝一番の回だったけれど、そして狭い劇場だったけれど、ほぼ八割が埋まっていた。

脚本を、「めぐりあう時間たち」のマイケル・カニンガムが担当していると知って期待して観に行った。

たしかに、好きな台詞が多かったけれど、全体としては私にはそれほどのインパクトがなかった。冒頭の台詞は、それを聞いた瞬間、忘れないように頭に刻みこんだが、正しいかどうかはわからない。

専業主婦でずっと家にいようとも、仕事ばりばりで家を空けていようとも、どの程度どのような関わり方を子どもに対してしようとも、母親というものは子どもを傷つけずにはいられない。

そのような意味の台詞が前後にあった。

ほんとうに、その通りなのだと思う一方で、これは誰にでも当てはまるものではないのかもしれない、とも思う。

何をしていようとも子どもを傷つける要素をたくさん持った母親と、そうでもない母親というのが、いるような気がしてならない。

(それでも毎度のことながら、このような台詞に出逢うとほっとしてしまう。逃げ場所を与えられたようで)

そして、こういうときに、「ぞうさん」の童謡と同じく、いつも「母親」なのだ。父ではなくて。嬉しいような損をしているような。

今、作品のタイトルを確認するために、ネットで調べたら、

「あなたが最期に呼ぶのは誰の名前ですか?」

という問いかけがあり、映画を思い出して、映画の主人公の場合は、アノヒトだったな。私は誰だろう、と今、あらためて考えてしまった。

朝はぼたぼたの雪が狂ったように降り、今は雨まじりの雪に変わって、季節の変化を強く意識させるお昼前に、そんなことを考えているのです。

しつこかった風邪もようやく治り、エナジーが少しずつ、身体にじわじわと広がってきています。

3月 10, 2008 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2008/02/18

「雪の道」 辻邦生

「だからその文化とか歴史とかいうことが、私には何となく空疎な考えのように思えてきたの。

それより一日一日の、あなたの言い方に従えば<消費され消えてしまう時間>の中に幸福があるのではないかしら、と、そう思えるわけ。

文化とか歴史とかの名目で、人間はこうした歴史にならない部分の意味を、故意に貶めていたのじゃないかしら」

ぜんぜん、冴えない。

と悲観してすねるのを防ぐために、煮詰まったときは、ノートを開く。

好きな言葉たちが、乱雑に書き連ねてある。今回、「ん?」と思ったのはこれ。

読んだ記憶がないから、引用からの引用かもしれない。それすらわからなくなっている。

でも、どうして以前に、これを書き写したのだろう。なんとなく反発して・・・・・・のような気がする。たぶんそうなのだろうな。

けれど、今は、これが、感覚的に理解できる。意見として賛成します、ということではなく、理解できるのだ。<消費され消えてしまう時間>って、ああいう瞬間を言うのだろうな、という場面場面が、頭に浮かぶ。映像はもちろん、温度もともなって。

このところ、すごく忙しいように、感じる。色々なことが重なって私の上に乗ってくるようなかんじ。「敏感」だから、と思いたいけれど、事実は、心身ともに「脆弱」なので、すぐに不調になる。不調になると、周囲に優しい気持を抱くのが難しくなる。そして<消費され消えてしまう時間>のなかに幸福を見出すなど、「不可能です!」と叫びたくなる。

それでも、季節が変わろうとしている瞬間を、ときどき感じて、空を見上げたりして、空の色、雲の色なんかをじっとみたりして、ただそれだけで生を感じるときだってあるのです。

2月 18, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/02/15

「ラスト、コーション」

「今まで誰の言葉も信じてこなかったが、おまえの言葉だけは信じよう」

切実な瞳で、孤独な男にこんな台詞を言われたら。

とひとり想像して、胸を熱くしている。

平日の朝9時15分の会だったのに、八割の客席が埋まっていた。日比谷シャンテで、私は久々に映画にのめりこんだ。

濃厚な性のシーンが話題、というのもすごく楽しみだったけれど、なんたって、主演がトニー・レオン。早く観たくてうずうずしていたのだった。

そして、断言する。全部観た訳ではないから、とてもいいかげんだけれど、トニー・レオンが出演した映画のなかで、これ、だんぜん、1番です。

目だけで、女を、別世界にいざなうことができる男。

それを再再再確認。

そして、深く激しい情念の、世界。男と女の不滅の絆の世界。

ラスト、美しいヒロインが、ぎりぎりのところで選択した、「それ」に、私は激しく共鳴する。

こうでなくては。

生きていてつまんなすぎる。というか、むしろ、そうでないやりかたは、生きている、と言ってはいけないのではないか。

とまで思わせる、ほんとうに、すばらしい映画。

観たのは昨日なのに、まだぜんぜん、その世界から抜け出られないのでした。

2月 15, 2008 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2008/02/07

「娼婦と鯨」

「価格と価値は違うのよ」

娼婦の女性が少年に「大事なことをおしえてあげるわ」といったふんいきで言う言葉。

自分の持ち物(バッグ、靴、服、アクセサリーなど)を見渡して、自分にとっての「価値」と、市場「価格」とがぜんぜん一致していないことを再確認した。

映画としては、私にとってはそれほど心に残らなかった。

それよりもちょっと前に観た映画「ラスト・ホリデイ」が、なぜがじわじわと後を引いている。

典型的な娯楽映画なのに。余命わずかの主人公が、最後にありったけの財産を使ってやりたいことをする、それがとても爽快なストーリー。それでラストはお決まりのハッピーエンド。

なのだけれど。

やたらと頭のなかをうるさくさせるのだ。

もしかしたら、人は、知らず知らずのうちに「守り」に入り、なけなしのものを「蓄える」ことに執着し、飛ぶことを恐れ、結果、つまらない人生を送るのかもしれない。

すべてを賭けて飛んでみたら、もしかしたらその先に、とんでもなく刺激的な人生があるかもしれないのに。

自分がどうもその守り体制にいるようで、だから、あの映画がいつまでも頭から消えないのかもしれない。

氷の町、軽井沢。人々の家の「つらら」を見るのが楽しいシーズンです。

2月 7, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/01/18

「独り居の日記」 メイ・サートン

「真実として残るのは、どれでも彼女の本をとりあげたとき、生きているという、より強い意識なしにはただの一ページも読めないことである。芸術が生命を高めるものでなかったら、いったいどんなものであるべきなのだろう?」

久しぶりに、読み返す。

ヴァージニア・ウルフの本について述べた部分。この前に、ウルフの『ある作家の日記』について、

「大いに自己専念はあるかもしれないが、自己憐憫はない」

と、私の大好きな評価がある。

生きている、という強い意識とともに、読ませる本・・・・・・。

胸があわだつ。

昨夜は殿方二名と食事をしていて、いろんな話をしたけれど、そのなかで、今、強くよみがえってきている言葉がある。

「お金じゃないんですよね、お金が欲しいのではない、そりゃあ、欲しいんだけどさあ」と笑った後。

彼は言った。

「充実した時間」

が欲しいんです。

私は驚いた。なぜなら、それは、彼が発したその言葉は、、私が胸のなかで叫んだ言葉でもあるから。

生きているなあ、という思いが体中に染み渡るような稀な瞬間だった。お店を出た後は、マイナス八度の夜気が、骨の中まで染み渡りそうでしたけれど。

1月 18, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/01/15

「どこか或る家」 高橋たか子

「けれども私はといえば、長年、小説を読むのがとても辛かった。自分と同じものを手さぐりしている小説以外は。自分が生きていることの根と同じ根をもつ小説以外は。 ・・・(略)・・・とにかく、私は小説を読むのが長年にわたって辛かった。私の中心点とそれの中心点とが同じでないような小説は。」

高橋たか子自選エッセイ集中、『「虚」のむなしさ』から。

小説が好きで、読書中は時間が経つのを忘れてしまう、読書好きの人々と自分自身を比較して言っている。

この部分を読んだとき、あ、私と一緒だ! と声をあげそうになった。私はいつも小説を読むときに、「自分が生きていることの根」、自分の「中心点」と同じものを探している。一行でもそれが見つけられれば幸運で、たいていは、あたりまえだけれど、落胆に終わる。

今朝まだ暗いうちに駅まで車を走らせた。外気温表示はマイナス八度。どこもかしこもかきーんと凍りついている。まだ暗い朝の、蛍光灯のついた軽井沢駅が私はなぜかとても好きだ。うら寂しく、けれどはっとするほとに綺麗で、泣きたくなるときがある。・・・・・・と、ときにはセンチメンタルにしめてみます。

1月 15, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2008/01/09

「善悪の彼岸」 ニーチェ

「表にはさながら悪意のごとく振舞う、気位の高い慈愛もある」

深く心にしみた。

しみてしみて痛いくらいだ。

『表にはさながら「善意」のごとく振舞う人々』について、嫌いという積極的な感情を持つわけではないけれど、違う違う違う! と叫ぶ自分のこころがうるさくて頭が痛くなる。

いや、そうではなくて、ほんとうは嫌いなのかもしれない。わからない。

とにかく、もしも私が持ち得るならば、気位の高い慈愛を持ってみたい、そう切に願う2008年の始まりなのでした。

1月 9, 2008 :::言葉の泪壺::: |

2007/12/10

「続 おんなの男性論」 大庭みな子

「私は金銭には欲望のあるほうではないが、いやなことをしないために、自由を得るためになら、他人の価値基準とは関係のない暮らしをするためになら、切実にお金が欲しいと思う」

自分の立ち位置を確認したくて、足元が、どこに立っても砂浜みたいなかんじがして、こころで叫びながら、書棚を見渡して、選んだ一冊。

読み進めるうちに、落ち着いてきた。

冒頭の一文は「いのちの夢」というエッセイ。

人はまったく自由だと、自由を感じることができないから、ある程度不自由なのがいい、という定説に反対はしないけれど、自分の価値基準の中で生きられない時間が、ある一定の量を超えると、私はだめだ。

そして、世の中にはお金で解決することを許さない場が、かなりあるから。

疲弊したなあ、と思う夜などは、ただただ、似た価値基準にふれることのできる本たちにすくいをもとめるのでした。

12月 10, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/11/27

「地獄の季節」 ランボオ

「俺は正義に対して武装した」

正義という言葉を、ためらいなく疑いなく口にする人に出会うと、急用を思い出したくなる。

本でもそうだ。先日もあるベストセラーを読んで、最初から、正義感、倫理観、という言葉がためらいなく疑いなく使われていたので、唖然とした。品格に関する書籍だった。

正義、倫理、それを使うのが嫌いなのではない。もっと慎重に扱いたいのだ。せめてその言葉の前に「私なりの」「自分なりの」という個人が欲しい。

と思っていたときに、ふと開いたランボウ。以前は

「ある夜、俺は『美』を膝の上に坐らせた。--苦々しい奴だと思った。--俺は思いっきり毒づいてやった」

のくだりが大好きだったけれど、今回は「正義に対して武装」、これ。

軽井沢は車が凍る季節となりました。ペレットストーブの炎ゆれるリビングでとろとろしていても許される季節でもあるから、嬉しいです。

11月 27, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/11/07

「エロス幻論」 中田耕治

「人間には、芸術に無縁の人種と、芸術によってしか生きてゆけぬ人種とある。前者は決して悩まず、うしろを振返ってみることなく、ダイヤモンドのように頑丈な心を持った人たちである。後者は、そういう人種を軽蔑すると同時に、そういう人種になりたいあこがれを持っている人たちだ。しかし、いくらあこがれても決してそのようにはなれず、ぶつかり合えば傷つくのは必ず後者であるが、傷つくことを最後には芸術のための肥料にする強靭さは持っている」

これは吉行淳之介の言葉。「トニオ・クレーゲル」の一節を彼自身の言葉で紹介した箇所だという。

昨日、久しぶりに合った方と同じ言語で三時間以上おしゃべりをして、内容が似通っていたので、彼女に紹介したかったけれど、どこで読んだか忘れていて言えなかった。

それを今突然に思い出した。

そして読み返して、ラストの一行の重要さを再発見したのでした。

11月 7, 2007 :::言葉の泪壺::: |

「ドストエフスキーのおもしろさ」 中村健之介

「苦しみと涙、それもまた生なのだ」

こういうシンプルな一文に胸をつかれるシーズンにいるということなのだろう。

昨夜、自分の中のある色彩を呼び戻したくて「アナイス・ニンの日記」を読み、その中にニンがドフトエフスキーに夢中になったくだりが出てきて、そういえば、私にもいくつかドフトエフスキーの言葉があったな、とノートを開いた。

そうしたら岩波ジュニア新書からの引用がたくさんあって、びっくり。そうだった。全体的なことを調べたい時に、図書館で借りてきたのだった。「カラマーゾフの兄弟」しか、ちゃんと読んでいないのかもしれない。

あーあ。もっと軽やかに生きられたらな、とも思うけれど、それでは絶対に満たされないことも知っている。

じゃあ、もっと明るく? 明るいのはいいかもしれない。そこに重さがあれば。

明るい=軽やか 暗ーい=重い

でもないでしょうに。

このように考え始めて、同じところをぐるぐると回り続ける。

そうして、ふいに、こんな私から離れることなくつきあってくれている人々に対する感謝の気持がいっぱいに胸に広がったりするので。

「ありがとう」

紅葉燃えるシーズンから最後の一葉、状態になっている軽井沢。窓外の空は雲一つなく、美しい水色なのでした。

11月 7, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/10/30

「エゴン・シーレ展カタログ」

「私は、今日1913年1月8日に明言いたします。この世でだれも愛してはいません、と。ヴァリー」

シーレのミューズ、あの有名な、そして私にとって特別な「死と処女(おとめ)」のモデルとなったヴァリー。彼女については詳細な記録は残されていなくて、けれど一度だけ、シーレのスケッチブックの中に自分の言葉を書き込んでいる。それが、この一文。冗談めかして言っている言葉らしいけれど・・・。

1991年のシーレ展カタログを手に入れて、初めて知った。「悲しみの女」のページにあっ た。そこには続けて次のような言葉がある。Photo

「シーレとの生活で資料として残されたヴァリー側からの積極的な表現が、このことばだけであったこともまた象徴的で、痛切な事実である」

冗談であろうとなかろうと、とっさに書いた一文であろうと、この世でだれも愛してはいない、という言葉を綴るヴァリーに、きっとシーレは魅せられたのだろうな、と思う。そのひとをかわいがりたい、という情熱とは違う種類の情熱だっただろうけれど。

軽井沢は紅葉シーズン。木々の色が、おそらく同じ色は何一つとしてない葉が、とても美しいです。

早朝などはずいぶん冷たくて、車の外気温表示「5℃」などに、マイナスになる日がもうすぐそこまで来ていることを知らされるのでした。

10月 30, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/10/26

Icon 伝説のバレエ・ダンサー、ニジンスキー妖像 芳賀直子

「紛れもなくこれは天才だった。まるでそれは恍惚であり、ほとんど神技に近かった」(チャールズ・チャップリン)

Photo ニジンスキーの名前は、ロシア・バレエを率いたディアギレフとともに、知ってはいた。ジャン・コクトーやシャネルのあたりをうろうろしていると、かならず登場する人だったから。けれど、こんなにも彼の姿が私のこころに迫ったのは、昨日が初めてだった。

下記に担当編集者の言葉があるけれど、彼の狙い通りに、この本は、読む(観る)側の私たちに、きちんとニジンスキーと向き合うことを余儀なくさせる。私はこの本に出逢って、世の中にいかに多くの「余計なキャプション」というものが存在するのかを知った。

(↓情熱があります。本に対する情熱が・・・)

http://www.1101.com/editor/2007-09-14.html

チャップリンの言葉は、おそらくニジンスキーの魅力をどんぴしゃに言い得ていると思う。

「まるでそれは恍惚であり」・・・

これと同じ感覚を私は知っている。

マリア・カラスのコンサートフィルムで、それから最近毎日のように観て感涙しているエディット・ピアフのコンサートフィルムなどで、体感しているから。

神技とまでは言いません。けれど一瞬でもいいから「まるでそれは恍惚であり」という感覚を文章で、感じさせたい、などと不遜にも願っているのでした。

10月 26, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/10/18

「エディット・ピアフ コンサート&ドキュメンタリー」

「いいえ、ぜんぜん いいえ、私は何も後悔していない」

話題の映画「エディット・ピアフ~愛の讃歌」、有楽座にて、土曜のお昼、一人ひっそりと観賞し、心で号泣し、ドキュメンタリーのDVDを借りた。

映画のヒットのおかげでピアフ関連の商品が充実するのは、とっても喜ばしいことだ。

ドキュメンタリーの中、インタビューの場面。

インタビュアー「恋愛経験も豊富で波乱に満ちた人生ですね。他の歌手のような穏やかな暮らしは?」

ピアフ「悪くはないけれど、そういう生き方では歌えなかったでしょうね。いつも全力投球なのよ」

インタビュアー「すべてに?」

ピアフ「そうよ」

インタビュアー「道徳に反しても?」

ピアフ「ええ、そうよ」

このときのピアフの表情、目の表情があまりに美しくて、繰り返し見た。

そして、死の直前、「奇跡のカムバック」と言われたオリンピア劇場で、「いいえ、私は何も後悔しない」を歌うピアフ・・・・・・。美しすぎる。

また、二十三歳年下の夫テオ・サラポとのデュエット「恋は何のために」を歌うピアフの、魅力的なことといったら絶句してしまうくらい。抱きしめたいくらい。

そこには私の琴線にふれてしまう、瞬間の美しい愛があった。「愛を信じたい」という気持にさせる輝きがあった。

ところで、映画ですが。

素晴らしかったです。好きなひとの伝記映画だから、前評判、事前知識ゼロで、祈るような気持で観に行ったけれど、ほんとうに、素晴らしかった!

もう一度行こうと思う。

だって、ラストが、

「NON,JE NE REGRETTE RIEN いいえ 私は何も後悔していない」。

「女神<ミューズ>のラストシーンと同じだなんて、それだけで感激。生きててよかったと思いました。

10月 18, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/10/12

「女の復讐」 バルベー・ドールヴィイ

「美は一つだ、醜のみが多様なのだ」

最近読んだ本でもないのに、なぜか、ここ数日、このフレーズが頭をくるくる回っている。そしていちいち、様々な場面で納得する。

たとえば、「私は美の収集よりも醜の収集が得意なことに、引け目を感じていたけれど、これは当然だった。美は一つだから収集しようがないもの」といったかんじで。

風が冷たい軽井沢。床暖房でぽかぽかの我が家の仕事場の窓から、色づいた葉が見えています。

今日は懐かしいひとから電話がありました。連絡先を聞くのを忘れました。どうぞまたご連絡くださいね。

10月 12, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/10/11

「私の嫌いな10の人びと」 中島義道

「たぶん、彼女はやはり遠いところをぼんやり見つめながら、ありとあらゆる解釈を拒否して、静かに死を迎えるように思われる。彼女はこう生きたのであり、こうしか生きられなかったのであり、それがすべてなのです」

「わが人生に悔いはない」と思っている人、が著者は嫌いで、そういう台詞を、きらきらっとした眼差しで普通に言える人々に、「ドカンと大砲を打ち込む」ために、小津安二郎の「東京暮色」を持ってきている。

その部分を読んで、ぜひとも、映画が観たくて、私が好きなジャンルではないけれど、DVDを借りた。そして観賞後、再び、その部分を読んだ。

映画について語られた文章で、こんなに感嘆することは、ほとんどない。荻昌弘の映画評論を読んだ時の感動を思い出した。

「彼女はこう生きたのであり、こうしか生きられなかったのであり、それがすべてなのです」

この一文には、人生そのものがある。

そんな風に感じて、それが頭から離れなかったから、夜のスーパーマーケットで、様々な人々を眺めながら、彼、彼女たちの人生に想いを泳がせてしまった。どのように生きているのか、どのようにしか生きられないのか。何のために、何を考えて生きているのか。

なかなか買い物が進まない。何度も同じところをぐるぐる回ることになる。信じられないくらい時間がかかる。

スーパーマーケットが現実味がなく、別の世界を漂っているようなかんじ。ふわふわと。

あぶないので、運転する時には、頭をぶるんぶるんと振って、現実に戻るようにしています。

10月 11, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/10/03

「不良少年とキリスト」 坂口安吾

「人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ」

苦しくなったときの安吾サマ。

じわじわと染みてきます。

「しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。

戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸はきめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。

決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。

戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ」

ああ。まるで、耳元で囁かれているようで、(妄想は得意)、慰められた。

望む方向に、気持が、一歩踏み出せたかんじがして嬉しい。と思い込もう、そうしよう。

ほんとに、すべては自分の心の状態なんだから。心の状態で周囲が、周囲の彼らは実際変わらなくても、、私にとっては変わって感じられるのだから。

気持ちよく人生を送るための秘訣みたいなかんじで、よく「期待しないこと」というのが挙げられるけれど、私はそれに賛成しながらも、そうなりたくない。だって、淋しくてやりきれない。苦しみの要因でもあり、悦びの要因でもある「熱」がそこにはないから、どうしても嫌なのです。

10月 3, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/10/02

「啼く鳥の」 大庭みな子

「彼女は毎日毎日、自分が思ってもいないことを平気で口にし、嘘ばかりついていて、おまけに相手が自分の本心を少しも見抜かず、嘘をついても全然気にならないらしいということに気が狂いそうになってきた。

気が狂わなかったのは、一人でこっそり、日常の会話とは全くべつのことを書きつけていたからである・・・略・・・

彼女は日常生活でもし自分が感ずるままのことを言ったり、したりしたら、それは攻撃的な、怒りと憤懣と悲しみに充ちた露悪的なものになり、他人を不愉快にし、その結果、みんなに危険な人間だと思われるに違いないと思ったので、嘘をつきつづけるしかなかったのだ。

嘘とはつまりこんなことだ。いやなことでも「はい」とすなおに言ったり、笑いたくないときでも笑ったり、つまらないことでも一生懸命やって、更に一生懸命やり続けることで、自分の頭を麻痺させてしまうというようなことである」

ああ。未熟者ゆえ、いろんな重圧(たぶん世間的には大したことがないこと)に耐えかねて、かなり限界にきています。ばたっ。

と倒れたくなるような気分なので、口から言葉が出てこない。誰とも話したくない。

部屋中に、「めぐりあう時間たち」の音楽をエンドレスで流して、ただひたすら、自分の創った物語世界に入り込み、言葉を愛でる。

人生の優先順位を決めてからは、少しは楽になったはずなのに。闘っている感がいつまで経っても拭いきれないのはなぜ。

「このテンションを維持しておきたい! ああっ、でも、・・・・・・だんだん・・・・・・なくなって・・・きて・・・しまう・・・大庭みな子が書くように、頭が麻痺してしまう」

といったかんじ。

午前中、所用があって出かけて、道で知り合いの殿方に会った(もちろんお互いに車)けれど、このような精神状態だったので、まともに会話ができなかった。ごめんなさい。

ずいぶん寒くて、一昨日からストーブをつけた。でも知り合いの家では既に床暖房と薪ストーブのダブルスタイルだそうです。

10月 2, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/28

「イエーツ詩集」

「しかしひとりの男は、あなたのなかの

尋ね求める魂そのものを愛した

そしてその変化する表情の奥にある

悲しみを愛した」

詩のタイトルは「あなたが年をとって」

「多くの男たちがあなたの明るい愛嬌を愛した そして真偽はともあれ熱情をもってあなたの美しさを褒めたたえた」

のあとにくるのが冒頭の四行。

たっぷり十分くらい、うっとりとした。私のあこがれが、美しい言葉とともに、あったから。

この地で、なるべく心地よく生活してゆくために必要な「労働」に従事して、腕がしびれているけれど、イエーツにすくわれました。

9月 28, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/27

「フリーダ」

「たしかにあなたの絵は個人的な絵だけれど、痛みに耐えて生き抜く、という人間に共通のものがそこにある。それがすばらしい」

フリーダ・カーロの伝記映画から。

と言っても最近観たのではなくて、なぜが突然思い出した。なぜか、なんてとぼけているけれど本当は、思い出させるような出来事があった。メモをとらなかったから全然正確ではないけれど、トロツキーがフリーダの絵をほめて、それに対してフリーダが「私の絵は個人的な絵よ」と言う。それに答えたのが冒頭の台詞。

大好きトロツキー。すべては個人的な事柄のなかから生れる。けれど表現する側も観賞する側も個人的なことを好むタイプと個人的なことを嫌がるタイプがいる。と、最近は思う。私は言うまでもなく前者で、さらにそれを突き抜けて、「個人的なことしか信じないタイプ」。

だから個人的なことを書く。あなたは自分のことばかりを書いている、と(たぶん、批判として)言われても、そうしようとしてそうしているのだから、頷くしかない。

このひと、自分のことを自分のために書いているな、と思える作者が好きで、そういう本を私は読みたい。そして自分が読みたい本を書かなくてどうするのさ、と思う。

なんだかとても強気では(三分後にはどうなっているかわからないけれど)。

何で読んだのか忘れたけれど(たぶん新聞)、美肌に執着する女性たちのことが話題になっていて、五十歳だか六十歳だかの女性が「美肌でなければ、生きていてもつまらない」的なことを言っていて、ひとそれぞれ、を痛感しました。同時に、美肌であれば生きていて面白いのならば、それはそれで羨ましいなあ、とも思いました。

9月 27, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/09/26

「愛のメタモルフォーズ」(愛 ドニ・ド・ルージュモン)

「愛の病に冒されている者は、健康になったところで何の喜びも見つけられないものなのである」

二度目ではあるけれど、ロマン・ポランスキーの『赤い航路』をDVDで観賞。情欲エナジーを豊富に持った男女が出逢うと、どうなるのかが、その始まりから終焉まで、しつこいほどに描かれている。

この映画で私はつくづく、自分の「ちょっと枯れたかんじの中年男性好み」を知ったけれど、そんなことはどうでもよくて、映画を観ながら、ずっと、ルージュモンの言葉が離れなかった。

健康ならいいってわけじゃないのよ、このところ健康への希求が年齢のせいか高まっているけれども、生への濃度と健康は比例しない。ぜったい、そう。

なぜか力んで叫びたい夜。日がほんとうに短くなりました。もう外は真っ暗です。

9月 26, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/25

「風紋」 大庭みな子

「利雄が浮気をすれば刺し殺す。しかし、みな子には自由を与えよ」

宝物の一冊となるであろう本。出版されたことを知った時から、そう思っていた。読んで、それが外れていなかったことがとても嬉しい。

大庭みな子が亡くなった時、サガンの訃報を知った時と同じ位の衝撃があった。小学校行事の関係で集められた古新聞の中に、「追悼・大庭みな子」という記事を見つけ、こっそり抜き取った時、自分はそんなにこのひとが好きだったのか、と思ったものだった。

大庭みな子への興味の大部分は、私の場合、夫であるひと(利雄さん)との関係性に向かう。「風紋」はその興味を充分に満たしてくれた。

冒頭の一文は「おかしなおかしな夫婦の話」というタイトルの大庭利雄さんのエッセイから。妻を亡くした悲しみ(「半身不随」ならぬ「半身不在」と表現している)の中で綴られたエッセイだ。

妻みな子の言い分は「貴方は女好きで博愛主義者だから他の女に手を出したら離れられなくなる。私は冷たくて情を移すようなことはないのだから一人の男に捉われてしまう心配はないの」。

だから、「「利雄が浮気をすれば刺し殺す。しかし、みな子には自由を与えよ」という不平等条約にサインさせられる結果となった。」のだそうだ。

どこかで聞いた話です。私の親しい友人は、きっとこれを読んだら笑うでしょう。それにしてもすくわれる。何度も読み返して感激している。普通のとは形が違うけれど、愛としか呼べないものが溢れていて、それがあまりにも私の急所をつくものだから、泣けてくるのです。

9月 25, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/21

「個人のたたかい」 茨木のり子

「すぐれた芸術家は、若いころの処女作のなかに、一生かかって成しとげる仕事の核を、密度高く内包しているものだといわれますが、この詩はそのことを痛感させてくれます」

「金子光晴の詩と真実」というサブタイトルの本。いっきに読んでしまった。それは金子光晴そのひと自身の魅力もあったが、それを描き出した茨木のり子の表現力が素晴らしかったから。

冒頭の文は、とても納得できたから、ラインを引いた。というのも、よく「処女作を超えるものは書けない」って言われるけれど、それはどうなのかなあっ、と常々疑問に思っていたからで、茨木のり子が表現したような、そういう意味ならば、確かにその通り、と頷ける。大庭みな子の「三匹の蟹」をすぐに思い出した。

それにしても。……また引用します。

「この期間、ぜんぜん文学書は読まず、詩も発表していません。ただ自分のなぐさみのためにだけ、手帳に詩を書きつけたりしていました。けれども、この期間、金子光晴の目はまばたきを忘れたミミズクの目のように、大きく開かれ、物の本質につきささる詩人の眼は、さまざまなものを視ていたのです(略) 「詩なんか捨てたっていい。」しんそこそう思っていた、詩作の空白時代の五年間が、しかし金子光晴の心の柱を太くした、いちばんだいじな時期にあたっていたのでした。」

平易な言葉しか使っていないのに、なんて深いのでしょう。

久々に言葉の選び方、表現というものに、感動した本でした。

残暑が厳しいと言われるこのごろ。軽井沢も昨日とそれから今日も27度まで上がるようです。けれで、もう空気が違います。家の中で静かにしていれば、暑いという感想を抱かないでいられるほどに、秋です。

9月 21, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/19

「ルー・サロメ」

「君は何をしているの?」

「私は……生きたいわ」

「ルー・サロメ 善悪の彼岸」。監督がリリアーナ・カヴァーニ、そう、「愛の嵐」を撮った人。この台詞はパウル・レーとの出逢いの時に、互いの職業などを聞き合う場面。ルー・サロメという人を象徴している台詞のように思えて、心に響いた。

「ルー・サロメ 愛と生涯」の訳者土岐恒二氏は次のようにルー・サロメを言う。

「たとえばニーチェが絶望的に愛したボーイッシュな才媛であり、あるいは、未熟な詩人リルケを愛と詩の体験へ導き、……略……晩年のフロイトのよき協力者として神秘に包まれた巫女……要するに近代ヨーロッパの最高の知性の周辺をいろどるこわくの女」

映画は面白かった。久々に濃厚なワインを飲んだかのように酔った。

それにしても、「あなたは? 何をしている人?」と聞かれて、「私は、生きたいわ」と言った時(言わないけど)、それを同じ世界観で受け取ってくれる人ってどのくらいいるのだろう、と考えた。

初めての人は想像しにくいから、周囲の知人たちに次のように聞かれたと仮定してみる。

「最近は何をしているの?(どんなテーマで書いているのか、それとも書いていないのかとかそういう意味で聞いているとする)」

そして私は答える。「私は……、生きたい」

その時の相手の表情、対応を想像したら楽しくなってしばし熱中してしまった。意外と、私の周囲に、(私から去らずに)まだいてくれる人たちは、楽しい反応をしてくれた(想像の中でだけど)。

最後に、ひどく共感した台詞を。

知り合いの女性から「私たちには女性と社会への責任があるわ」と言われて、

「“私たち”? あなたが主張する“私たち”って何なの? 私は私のことしか知らない」

大好きだな、と思いました。

9月 19, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/09/18

「日記」 高橋たか子

「あのいくらかたどたどしい筆致で表現されたもののほうこそ、生身の私の人間観がこもっている……(略)……三度目の原稿が受理されて、それが本になった後、私は、あの二つの原稿――(略)を、破棄して燃やしてしまったのだった。そのとき、胸を裂くような、内面の、肉の音がした。あのまま活字になるべきだった! 処女作が、永久に失われてしまったのだ。若い私の、いのちがけで書きつづけたものが――。」

心の調子がどうも弱い状態で、自分がまったく無価値な人間なのだと(かもしれないけど)思い込んでどうにもならない時は胸が苦しい。どきどきしながら本棚の前にたたずんで何冊かの本を抜き取り、そのまま座り込んで、乱暴な読書をする。

そんな状況で、今回は、この部分に、惹かれた。

熱があって、それをとてもよいと思った。好きだと思った。

それにしても、最後に「(なぜそんな残念なことになったか。いうまでもなく、あの最初の時点における日本の文学の狭さのせいだった)」と言い切れる作家は凄い。私の場合は最初に書いたものは、そりゃあ勢いと熱はあるものの、とてもじゃないけど公表できない。今よりも、もっともっとレベルが低くて、という意味で。

昨日新宿の紀伊国屋書店を出たところで、若い男の子に声をかけられた。「熱心に本を眺めていらして、好きな作家の所にいたのですか? ちょっとでいいのでお茶してください!」

私は自分の新刊「女神ミューズ」が平積みになっていて、「軽井沢夫人」も置いてあるなあ、などと、ぼんやりたたずんでいたので、それを見られていたかと思うと大変恥ずかしかった。なので「声をかけてくれてありがとう。でももう行きますっ」と挙動不審女をしてしまったのでした。

9月 18, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/13

「愛という名の孤独」 フランソワーズ・サガン

「不幸からは人間は何も学びません、不幸は人に大打撃を与えるだけです。人を瀬戸際に立たせるだけです。私自身が不幸な時、いつもそのことを恥に思っていました。不幸であることは、品位を落とした状態なのです。<……>試練が人を養うという考えは、まったくの嘘。幸せな時のほうが学ぶことがずっと多いのです」

いかにもサガン的な意見に、今回はラインを濃く引いた。不幸であることは品位を落とした状態。これ、たしかに思い当たるところが多い。

けれど、自分は幸福だとしている人たちが品があるかといえば、周囲を見渡して、そうでもなく、もともと品というものは、備わっている人とそうでない人がいる、というのが今の私の実感だ。

そしてこのところは「品」と「情」の関係に注目している。自分の周囲の人しかリサーチできないけれど、勝手に判断すれば、「品のある人は情があり、情のある人は品がある」。

そしてさらに、「品」と「情」を備えている人には「生きるセンス」というものがある。お金を持っているか持っていないかは重要ではない。生きるセンスとは、やはり「自分なり」の幸福を追い求めることにつながる。

だから不幸の中に価値を見出したりしないのだ。

とサガンにつなげたいところです。

9月 13, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/12

「『外科室』の解説」 川村二郎

「だが、たとえ長い時間をかけて成長したり衰弱したりするにしても、少なくとも愛が発生するのは瞬間である。分別も常識もたちどころに無力化する、有無をいわせぬ暴力を孕んだ瞬間である。その瞬間を知らぬ人は愛を知らぬというにすぎない。鏡花は『外科室』でただその瞬間だけを定着しようとしたのである」

泉鏡花の『外科室』を、久しぶりに読んだ。いつものようにしびれて、それからいつもは読まない解説を読んだ。そして、好きな文章を見つけた。

しばし、「瞬間」の思い出にふける。

好きな小説の解説で感動した経験は記憶のなかでは皆無だけれど、この解説は、私に、私が「瞬間」を熱愛していること、だからこそ『外科室』を溺愛するのだということを提示して見せてくれた。

まったく。

日常のなかでは、それこそ「瞬間」の積み重ねが日常なのに、「瞬間」を忘れてしまう。それは余裕がないからだ。余裕とは時間ではなく、心と頭のなかの自由な空間のことだ。いったい何にそんなに束縛されているのか、と笑いたくなる。そして自分を束縛し、余裕をなくしている要因をひとつひとつを拾い上げてみれば、ほんとうに実のところは重要ではないものばかりで、それに気づいた瞬間だけは、ふっと軽くなれたように思う。

こういうの、たまには持続すればいいのに、とふくれたくなる午後。雨も上がり、いきなりあらわれたさわやかな秋空を仕事場の窓から眺め、ため息などついてみたくなるのでした。

9月 12, 2007 :::言葉の泪壺::: |

「言葉の箱」 辻邦生

「結局、小説の魅力は、そうした作家の一人ひとりが、自分の心のなかで、これぞ生命のシンボルなんだ、これに触れて初めて人間が単調な世界から抜け出ることができるんだという、そういうものに満ちた別世界を描くことだと言っていいかと思います」

「言葉の箱」は五年くらい前に、私を大きくすくってくれた大切な本。

今朝、心に響いた言葉を乱雑に書きとめたノートを整理していて、今、今度は大きくなぐさめられた。

軽井沢は今朝も雨。

台風で、我家に大きな被害はなかったけれど、浄化槽の関係で水が流せなくなったのと、停電が二日続いたことは、やはり非日常。そしてあたりまえだけれど不便。自分がいかに逆境に弱い人間なのか、もう分かっているというのに、痛感してしまった数日間でした。

9月 12, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/06

「ひとを<嫌う>ということ」 中島義道

「じつは「嫌い」の原因を探ることには絶大なプラスの効果があるからです。自分の勝手さ、自分の理不尽さ、自分の盲目さが見えるようになる。そのために、ひとを嫌うことをやめることはできませんが(そして、その必要もないのですが)、自己批判的に人生を見られるようになる。他人から嫌われても、冷静にその原因を考えれば、たいていの場合許すことができるようになる。こうして、ほんとうの意味で他人に寛大になれる。

 嫌うことをやめるのではなく、嫌われていることに眼を覆い耳をふさぐのではなく、あくまでも繊細にその原因を追及し、わからなければ「生理的嫌悪感」という行き止まりで納得する。こうした態度にもとづいた人生は、不幸かもしれないけれど、真実を恐れつづけて幸福に浸っている人生よりずっと充実しているように思われる。強く豊かな人生であるように思われるのですが、いかがでしょうか」

ここ一週間、私をすくってくれた本。眠る前には必ず開いた。読むのは三度目。(じつは一週間前には『私が嫌いな10の人びと』で、心のもやもやをすっきりさせていた。「いい人」の鈍感さが我慢できない。という帯のコピーを私は熱愛している)。

一度でいいから「軽井沢夫人」と対談して欲しいと思う。私ではだめ。「軽井沢夫人」でないと。

新しく本を出すと、それにまつわる儀式がすこしあって、それに反応する、あるいは無反応の人々とのつきあいがうまくできない。いつもそうだけれど、いつも疲れる。

中島義道さん、ありがとうございます。ジャン・マレーは「真実の中にしか幸福は見出せない。自分をさらけ出すこと、それが他の人の助けになりうるのだ」と言いましたが、あなたの書いた「血がしたたるほどの真実」は、こんなに私をすくっています。

台風で、外はひどい状態です。ゴア元副大統領の「不都合な真実」を観てから、初めてのひどい台風で、私はとても怖い。軽井沢に移住して、自然をこんなに怖いと感じたのは初めてです。どうか、ひどい被害なく、通り過ぎてくれますように。

9月 6, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/04

「セルジュ・ルタンス―――夢幻の旅の記録」 セルジュ・ルタンス

「『美』というものは希少さを望んでいるのです」

「フランスの知性、哲人」と称されるアーティスト。資生堂のイメージクリエイターとしても知られるらしいけれど、私は知らなかった。でも、写真集の、このカヴァの美しさにうたれてしまった。

Photo

冒頭の以外の言葉もいい。

たとえば、「赤と黒」について。

「私がいちばん好きな二色。私の赤は強迫観念、黒は私に混じり合う」

セルジュ・ルタンスと好きな色が一緒。

私の場合は・・・・・・。

「赤と黒」は私がいちばん好きな二色です。私の赤は切り札、黒は私を隠してくれる。

と、言わせてください。

9月 4, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/09/03

「プレヴェール詩集」 ジャック・プレヴェール(小笠原豊樹訳)

「ファスナーが稲妻のようにきみの腰を滑り

きみの恋する肉体の幸福な嵐が

くらやみのなかで 

爆発的に始まった

きみの服は蝋引きの床に落ちるとき

オレンジの皮が絨毯の上に落ちるほどの音も立てなかったが

ぼくらの足に踏まれて 

小さな阿古屋貝のボタンは種のように鳴った

サンギーヌ・オレンジ 

きれいなくだもの 

きみの乳房の突端は 

ぼくのてのひらに 

新しい運命線を引いた 

サンギーヌ 

きれいなくだもの 

夜の太陽。」

Kさんからいただいた詩集、「サンギーヌ」というタイトルの詩があまりにも熱くて美しく、以前に感動したプレヴェールの詩を過去のノートの中に探した。みつからなくて、さきほどようやく探し当てた。訳は誰の手によるものなのかわからない。親友が訳したものか、あるいは翻訳を仕事としている知人か。

タイトルは「アリカンテ」。

テーブルのうえにオレンジが一つ

絨毯の上にきみの服

そしてぼくのベッドのなかにきみがいる

今このときの愛しい贈り物

夜の涼気

ぼくの生命の火照り

地球の温暖化をとめることがきなかったとしても、まだ生きたかった人を殺す人間がいて、それをどうすることもできないとしても、私はプレヴェールのこういう世界を愛する。

プレヴェールはけれど恋愛詩よりもむしろ、社会に対する彼自身の目を持っていて、それを表現したことで知られている。そう思うと、やはり、といつもの結論に達して安心する(毎度)。

愛しい女性と共にいる風景をこのように美しく熱く描写するその感性は社会に向っても美しく熱く伸びてゆくのだと。

久々に、何度目かの「天井桟敷の人々」(プレヴェール脚本)が見たくなりDVDを借りることにしました。買ってしまうかもしれません。先日「ドリームガールズ」買ったばかりなのに。

9月 3, 2007 :::言葉の泪壺::: |

「ウインブルドン」

「自分が何者なのか、決意して」

ようやく「その季節」となったというのに冷めてしまっているテニス熱を取り戻そうとDVDで観賞。

ベテランのテニスプレイヤーが若手の天才的プレイヤー(キルスティン・ダンストが不思議というより不可解な、魅力を振りまいている)と恋に落ちるというお話で楽しかった。

冒頭のセリフ、英語の表現をチェックしないまま返却してしまったから、字幕の言葉なのだけれど、思わず書きとめた。

「あなたは何者なの?」「自分は何者なのか」

とは違う。

「自分が何者なのか」→「決意する」という、その行為に胸が突かれた。

そしてこの胸が突かれたという状態は、カフカの言葉を思い出させた。

「人間は自分の中に破壊しがたいものが存在するということを継続的に信じない限り生きることはできない」

自分の中の「破壊しがたいもの」の存在を確認したなら、もしかしたらそれが辛い作業とはなっても、確認したなら、そこに生きることへのこたえがあるのではないか。

いつもこんなこと言ってそうだけれど、仕方がない。一生考えながら行くのだろう、と思うのです。

軽井沢。今日は晴れていて暖かい。でも、ここのところ数日濃霧で寒かった。季節が、目に見える形で、肌に感じる形で、移り変わっています。

9月 3, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/07/18

「孤独について 生きるのが困難な人々へ」 中島義道

「私は自分に興味があるが、ほとんどの他人には興味がない。私に興味を示してくれるほとんどの他人にも興味がない。とはいえ、相手に向かって「あなたにはまったく興味がありません」と言うことは、世間ではほぼ禁じられている。とすると、私はあたかも他人に興味を抱いているかのようにふるまわなければならない。私はこの嘘が、たいそう煩わしくなってしまったのだ。そこで、孤独になるほかないことを知った。さらに孤独になって、さらに書くほかないことを知った」

私は上の引用を、ほとんど笑いながら書いた。爽快感で、微笑が。好きな作家の一人なのだ。

本棚ではなく、机の上に並べられている数十冊の本。タイトルにふっと惹かれて手にとってしまった。読むのは二度目。やらなければならないことがあるのに、今の私にとって、魅力的なタイトルだということか。

「書くというやくざな営みをしながら、世間一般の幸福を追求するなどというのは虫がよすぎる。書くことによってほんの一握りの賛同者と膨大な批判者・無関心者が生まれることは必至のことである。それを丸ごと呑み込むとき、人は書き続けるようになる」

「ますます自分だけしか興味がなくなってしまった」中島氏は、「血の言葉」を吐き、自分のことを書き続ける。フィクションではない。ノンフィクションだ。

自分との差異をここに見る。

類似に微笑みながら、うなずきながら、それでも同一人物であるわけがないから、差異はあるわけで、類似するところが多ければ多いほど、その差異が意味深く、強烈になる。

昨日は濃霧で、今日は薄い霧。家にいていいんだよ、と霧に許可されて、とても仕事がはかどるはずの夕刻です。

7月 18, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/06/26

「怖い絵」 久世光彦

「だいたいビアズリーのサロメを好きだという女の人は、何となくそれらしい衣装をまとい、それらしい雰囲気を意識して漂わせているものだ。逆に言えば、明るい笑顔の肥った女の人がビアズリーを好きだという話を私は聞いたことがない。みんな誰でも自分に似合ったものを選んで好きになるのだ。そしてそれは、単に外貌だけではなく、中身についても言えるのではないだろうか。」

少し前に仕事でお会いした女性から、「久世光彦さんの怖い絵、ってお読みになったことありますか?」と尋ねられた。久世光彦のほかの作品ならいくつか読んだけれど、それはないと答えると、私が書くものと同じ匂いがしているから読んでみてください、と勧められた。

「怖い絵」をモティーフに物語がつむがれているのだが、確かに選ばれている絵が、私の好みと重なっていて(もちろん全てではないが)楽しかった。同じ絵を見てもぜんぜん違うことを連想し、ぜんぜん違う物語が作られていることが楽しかったのだ。

以前は没頭していて、このところは遠ざかっていた絵の世界、画家の世界に舞い戻る機会が与えられて、久しぶりに絵などをじっくりと見ている。すると以前好きだった絵がそうでもなくなったりしていることがあって、驚く。

冒頭の一文からすれば、これは自分自身の変化を物語ることになり、分析などしてみて、一人でなるほどなるほど、と感心して、今度、「絵画占い」、という本を書いてみようかな、と思うのでした(うそ)。

6月 26, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/05/15

「アナイス・ニンの日記」

「冬眠の徴候はすぐそれとわかる。第一に落ちつかない気分、第二の徴候(冬眠が危険になって死に堕する可能性が出てきたとき)は快楽の欠如だ。それでおしまい。

それは一見無害な病気のようだ。単調さ、退屈、死。幾百万の人間がそれと知らずにこんな生きかた(あるいはこんな死にかた)をしているのだ。(略)

それから何らかのショック療法が加えられる。一人の人間、一冊の本、一つの歌、それが彼らを目覚めさせ、死から救ってくれる」

もう何度目からわからない、アナイス・ニンの日記を、夜眠る前に読んでいる。

このくだりは、以前にもラインも引かれていて、相当好きな部分だ。冬眠の徴候の二つの要素が、自分とまるきり同じものだから、はじめて読んだときには、かなり興奮したのをよく覚えている。

このところは、「落ち着かない気分」を、以前よりすこしだけ早くに察知することができるようになったようで、だから以前より「快楽の欠如」にたどり着く回数が減ったように思う。

それにしても、「ショック療法」も年齢を重ねるごとに、強烈なものを必要とするようだ。ちょっとやそっとでは、「それ」を「死から救ってくれる」ほどの感じることができなくなっている。不感症になってしまったのでは、とおそれるほどに、そう思う。

外は、みずみずしい緑の葉がいっぱいで、風がないものだから、湿った空気の中、ぴたりと動かない。静かな一日となりそうです。

5月 15, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/04/16

「うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ」

「ぼくの生活信条として、

なんでもないことは流行に従う。

重大なことは道徳に従う。

芸術のことは自分に従う。」

自分で書いた本の、あれを読みたい、と突然に思った。

「心の琴線にふれるワンセンテンス」というメルマガが元になった、私が出会った言葉についてのエッセイ集だ。読みたくなったのは「自分に従う意思」というタイトルの、小津安二郎の言葉に触発された一遍。その中で私は、

***

私はこれを気に入って、なんでもないことは流行に従う、の「流行」を「世間」に置き換えて「活用」していた。

***

と書き、娘の保育園でのあれこれを例に出している。随分前のことのように思える。

このところ、私は「世間」というものをしみじみと体験させていただいている。そして強く再確認するのは、私は世間というものと仲良くできない性質だから、今の職業を選んだのだな、ということだ。再確認する、ということは、世間体験が相当にしんどいからだ。

自分と他人とをくっきりと隔てる自分だけの思想・・・・・・などという言葉とは無縁の人たちと私は上手く付き合うことができない。

先日、この苦しみがあふれてしまった。そのとき、吐いた言葉は、「私には資格がない!」だった。何に対する資格なのだろう、と今考えてみるに、「私は世間に迎合しないわよ、やってられないわっ」と背徳する資格なのだった。

結婚をし子供を産んだ時点で、私はその資格を失ったのだった。自覚はしているけれど、どうにもこうにも自分を持て余すときというものはあるもので、これは自分の弱さとの対峙であり、どうにもならないその弱さに、がっくりと首を落としたくなる。

今日の軽井沢は霧雨が降っていて、昨日より気温が十度低いという。八度までしか上がらないと。

ああうれしい。落ち着く。今日は家で本を読もう。ここ一ヶ月物語作りに没頭していたから、他の人の本が読みたくなっています。

4月 16, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/03/22

「キンキーブーツ」

「人が何を成し得たかは他の人の心に何を残したかで測るべきよ」

昨夜DVDで観賞。たしか、一昨年の夏あたりに日比谷のシャンテ・シネで上映された。観に行こうと思っていてすっかり忘れていた。とても面白い映画だった(私は靴フェチなので、それもあって、たまらなかった)。

赤いエナメルのブーツが主役級の存在感で、たびたび姿をちらつかせ、欲してたまらなくなってしまい、困った。けれど、映画のほど芸術的ではないけれど、私は既にブラジルの赤いブーツを持っていて、このおかげで、今日ブーツを探し回りに行かずに済んでいる。

キンキー、というのは、ちょっと変わってる、変態、というような意味。ああ。タイトルも、とっても好きだ。

冒頭のセリフは、DVDを観ながらとしては久々に、書き留めたセリフ。

「そうよー、その通りよー」と感動して書き写したのではない。「いいセリフだな」という想いがまずあって、あとは、何かが引っかかったからノートに書いた。

一夜明けて、その「何か」がわかった。良いセリフだろうに、素直に感動できなかったのは、このところ、この種の考え方は、「ラクすぎるのでは」と思うからだ。もちろん、すごくしんどいときは、何でもいいからラクになりたいから、こういうセリフが必要となる。けれど、それ以外のときには、むしろ邪魔なのでは。

だから、このセリフに、どのように対応するかで、現在の自分自身の状態が読めるという、なにか「踏み絵」のようなセリフなのだな、と思うのでした。

3月 22, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/03/16

「セルフポートレイト」 マン・レイ

「わたしは多くの友人たちの死に際していきどおりを覚えた。……(略)……親しくしていた存在が去ってしまうことに一種の逃避、裏切りのようなものを感じていたからなのである」

マン・レイの自伝の、モンパルナスのキキについて書かれた箇所のラスト。

ここを読んだとき、マン・レイの臆病な眼差しを見たように思った。

「自衛してる」と思った。

これは自分自身が、友人の死の衝撃によって重症を負わないための自衛手段だ。なぜなら、憤り、という感情は、エネルギーが外に向かうし、とても生命的なものだから。

マン・レイのこの言葉を必要とする日のために、書き留めておこう。

3月 16, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/02/16

「わが悲しき娼婦たちの思い出」 G・ガルシア=マルケス

「セックスというのは、愛が不足しているときに慰めになるだけのことだよ」

90歳の、性的に自信のある男性が、娼館のマダムに言った言葉。とくに胸に響いたわけではないけれど、気になって書き留めた。いつか、「はっ」と、言葉の持つ重要な意味に気づくような予感が、少ししたから。

昨日、外はものすごい風が吹き荒れていて、いろんな音が聞こえてきて、そんななかで、一気に読んだのですが、やはり、主人公が90歳だし、90の誕生日に「うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考え」るような人なので、やはり共感するところはとても少なかったです。でも、どこかで安堵めいたものがあったのも確か。

2月 16, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/02/08

「部族虐殺 夜明けの新聞の匂い」 曽野綾子

「自分がそのことをどう考える、のではない。他の人も、程度の差こそあれ似たようなことをやっている以上、そんなものだろう、と考えることが逃走なのである」

『自分からの逃走』というタイトルのエッセイから。

このエッセイには次の一文もあって、

「不幸には二つの型がある。襲って来る型の不幸と、自らつくり出す型の不幸とである」

それこそ「幸か不幸か」、今のところ後者である私としては、苦しくなってくると「他の人もそんなものだろう」と考えることができる人に憧れて、そうすれば、もっとラクに楽しくなるに違いない、と考えて、ばかみたいに懸命に「自分からの逃走」の努力を、したりする。

そうするとだんだんそれができる頻度が高くなるようで、今度はそれが怖くなってくる。

それで曽野綾子のエッセイ集などを本棚から取り出して、読みふける。

そしてやはり、いやなんだなあ、と確認する。

そう。

「自分から逃走し続けている人は、自分の本質を言われると、喧嘩をふっかけられたように腹が立つのである」

こういう人ではありたくない、やっぱりいやだ、と毎度再確認するのでした。

2月 8, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2007/01/17

「魔女の一ダース」 米原万里

「上昇志向の強い人間は、なかなか幸せになりにくい。幸せとは自分を見つめる、もう一人の自分が、自分に満足であるときに感じる心の状態である。満足のノルマをどこに置くかで、幸せの度合いも左右される」

まったくそうなのだ、と思う。

その上で、こうも思う。

「満足のノルマをどこに置くか」・・・、これは私にしてみればちょっと違和感があるな、と。

どこに置くか、という選択は不可能だと思うから。ここに置きたい、ここに置けば幸せに近いのにさあっ、と地団駄ふみながら、「満足のノルマ」が遠くにあるのをじっと見つめる、そんな自分の姿が浮かんでしまうから。

そうか。

書きながら思う。

幸せにたどりつくには、まず、「満足のノルマ」を自分で設定できるような力をつけないといけないのかも。「どこに置くか」は、その後の問題なのだ。

雪が降った日の夜の空気は、すごく冷たいけれど、窓を開けて、思い切り深呼吸したくなる、そんな魅力に満ちている。窓を開けてみましょうか。

1月 17, 2007 :::言葉の泪壺::: |

2006/12/22

「人はなんで生きるか」  トルストイ

「わたしは、すべてのひとは自分のことを考える心ではなく、愛によって生きているのだということを知りました」

キリスト教色の、トルストイ民話集のなかの一遍。「人はなんで生きるか」。

人間というものを知らない故、神によって人間の姿にかえられた天使が、長い年月をかけて、得た答えがこれ。

あたりまえすぎて、なんてあたりまえなんだろう、となかば呆れながら、胸うたれるのは、ときどき、このあたりまえの答えを見失うからなのだろう。

見失っているときに、読んだからなのだろう。

じゃあ、愛って何よ、とはもう思わない。自分自身がそのとき胸のなかに芽生えた、なにかあたたかで充足しているもの、これが愛なのだろう、と思えばそれでいい、と思う。

キキは「私は愛を感じることを愛しているの」と言ったけれど、まさにこの心境。

クリスマスシーズンで、世の中は、華やいでいるけれど、キリスト者でないものも、意味不明にはしゃいでいるけれど、私は、何かをしようとしたならば、そこに自分なりの意味づけをしないではいられないので、何年か前に、その意味づけができて、それから安心してクリスマスを迎えられるようになった。

親友がキリスト教信者で、その親友が言った言葉。イエスが存在したかどうかはわからない。けれどイエスや、イエスの教えを信じる人間を愛しく思う。

つまり、人間に対する愛なのだと。

私はこの言葉を彼女の口から聞いてから、愛しい彼女が信じたいと願う、イエスやイエスの教えを、私も尊びたいと思った。クリスマスはそのイエスの誕生日。だからお祝いしたい。

トルストイのこのタイトルの文庫本を、東京駅近くの丸善ブックセンターで手にとったのも、偶然ではなく、必然であったのね、と思う夜なのでした。

12月 22, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/12/19

「美の死」 久世光彦

「だいたい色っぽいということは、男なら<生勃え(なまおえ)>、女なら<生濡れ>でいる状態のことだとぼくは思っている」

「ぼくの感傷的読書」というサブタイトルの本。吉行淳之介について語られたエッセイの中の言葉。エッセイのタイトルは「生勃えの戯れ唄」。

「生勃え(なまおえ)」、という言葉をはじめて知った。久世光彦はこれの親戚として「熱めく(ほめく)」という言葉も使っている。どちらも、言葉が、言葉としてその意味するところを鮮やかに、そして甘美にイメージさせる。久世光彦の言葉の選び方が、私は好きだ。そこには彼の美学がある。

久世光彦は「ぼくの吉行さんは、いつだって<生勃え>だった。可笑しくて、ちょっと哀しい<生勃え>だった」と言う。

そして、「あの人は、朝の散歩をしていても、電車に乗っていても、猫に餌をやっていても、もちろん女の人に微笑ってみせているときでも<生勃え>に勃えていたに違いない。たぶん死ぬまで勃えきることができなかった代わりに、絶え間なく勃えていたのだと思う」。

「いつどんなときだって、色っぽい人だったとよく言われるが、それはそういうことなのだ」。

そして冒頭の一文が続いて、

ネガティブにとらえられがちな「生」だが、これが「四六時中となると、それこそ半端ではできないことだ。少なくとも、意思の力だとか、鍛錬だとか、習慣とかだけで、そうなれるものではない。たぶん、血統、そうでなければ人種みたいなものである。つまり、<生まれつき>といっていいのかもしれない」と、言う。

久世光彦の、吉行淳之介に対する共鳴の声が聞こえてきそうだ。

<生まれつき>。ああ。かなしくもあり、きっとどこかよろこばしくもあるのでしょう。そして、いずれにしても、努力でどうにも変えようがないことだから、なんとか、抱えて、生き続けるしか、ないのです。

12月 19, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/12/13

「ケッヘル」 中山可穂

「真に人間らしい人生とは、中心に愛のある人生のことだ。誰かをひたむきに愛し、愛される、薔薇色の不安に満ちあふれた人生のことだ」

今年の六月に刊行された、中山可穂の最新刊を、ようやく読んだ。大好きな、たぶん、現在活躍中の作家のなかで一番好きな作家だから、読みたくてたまらなかったけれど、ずっと読めなかった。自分自身の状況がそれに適応していたなかったからだ。

中山可穂の作品は、読むのに「覚悟」がいる。こんな作家も、私にとっては、今生きている作家の中では、一人だけだ。

以前に坂口安吾のときにも書いたけれど、もう無条件に好きなので、批評などできない。彼女が書いた一言一句がいとおしい。何より、ほんとうに美しい。

『ケッヘル』はこれまでの彼女の作品とは趣が違っていて、ミステリー仕立てになっていて、今までの、人の感情というものをぎゅっと凝縮したような作品ではない。いろんなドラマがあって、もしかしたら、他の作家の作品に近いかもしれない。

けれど、やはり、作者は中山可穂なので、そこかしこに、どうしても彼女の情熱が溢れてしまっていて、それがたまらない。

中山可穂の感受性というものに、あらためて惚れ直した本だった。

「プラハの石畳は、謎めいた美しい女の背中に似ている」だなんて、風景を描いてもそれが風景にとどまらずに官能的であったクリムトや、木を描いてもそれが木ではなく、死への畏れであったシーレのようだ。

読んでからもう五日も経つのに、心身から離れない。もうここまでくると、このような作家と同時代に生き、リアルタイムでその作品を読むことのできる幸せを感じてしまいます。

12月 13, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/12/11

「強く生きる言葉」 岡本太郎

「どんなことがあっても、自分がまちがっていたとか、心をいれかえるとか、そういう卑しい変節をするべきではない。一見、謙虚に見えて、それはごま化しであるにすぎないのだ」

岡本太郎語録中の「失敗」について。

一見謙虚に見えて、それはごま化しであるにすぎない。

痛かった。うすうす感じていたから、「謙虚」ぶることの安楽さを、そのずるさを。

もちろん、岡本太郎とは違うから「どんなことがあっても」自分がまちがっていた、と思わないことなど、私にはできない。

けれど、ぎりぎりまで、ほんとうか、ほんとうに自分がまちがっていたのか、と疑うことに手を抜くのはやめたいと思った。なぜなら、そこのところに手を抜いたら、他の人と自分とを隔てる、自分自身の中にある核が少しずつ姿を消してゆきそうで、それが私はとてもこわい。

出版記念を兼ねた「軽井沢夫人 浪漫夜会」が終わって一週間。ようやく落ち着いた週明け、仕事場の窓から見える空は、薄い青色。その、葉が落ちた枝の背景に広がる青色は美しいけれど、暖かさは感じられません。氷の季節がもうそこまで来ているからです。

12月 11, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/11/28

「不実な美女か貞淑な醜女か」 米原万里

「そして、通訳にとって、最も必要とされる素質とは、二つの言語にまたがる幅広い正確な知識や、柔軟な両語の駆使能力もさることながら、話し手の最も言いたいことをつかみ、それをどんな手段を講じてでも、とにかく聞き手に通じさせようとする情熱なのではないだろうか」

情熱。

この箇所を読んだ瞬間、「やっぱり!」と声をあげてしまった。

ロシア語の、カリスマ通訳といわれる著者のエッセイは、飛ばし読みが不可能なほどに面白く、通訳という、私自身とはまったくかけ離れている世界の話でありながら、ほんとうに面白く、「この人のものの考え方、私、好きだ」と思いつつ、読み終えるのが惜しいからゆっくりと読み進めていったのだが、後半、“情熱”のくだりにふれて、深く納得した。

そうなのだった。このエッセイの帯には「同時通訳の内幕初公開!」とあるけれど、そして、笑える失敗談なんかも数多く紹介されているのだけれど、根底にずっと流れているもの、それは彼女の「コミュニケーション」、そして「言葉」に対する、驚くほどにあつい情熱なのだった。

このような本にめぐり合えてしあわせだ、と心から思える本に、久しぶりに出会えたようです。

11月 28, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/11/17

「遊女クラリモンドの恋」  野内良三 編訳

「美は一つだ。醜のみが多様なのだ」

フランス・愛の短編集。とのサブタイトルがついた本のラストの一編。バルベー・ドールヴィィイの『女の復讐』のなかの言葉。

たしかに、「どのように」といった説明を必要とするのは、「醜」に出会ったときかもしれない。「美」は、実際は様々に形容はするけれど、説明不能。

たとえば一日をふりかえってみて、「美」の瞬間があったかどうか、「醜」の瞬間はどうか、と考えてみる。五感がとらえたものはもちろん、自分自身の心情、行動などもふくめて。

体調も精神状態もよく、満たされ感が強いときには、けっこう「美」の瞬間を多く感じていたりする。

同じものが目の前に広がっていても、心身の状態によって、感じるものが、そう、目に映るものさえ変わってくるという、証拠だと思う。

今日はどこまでも白い空。

初雪という言葉が浮かびそうな、空です。

11月 17, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/11/10

「坂口安吾 百歳の異端児」 出口裕弘

「君は小説よりエッセーのほうがいいね。何かにつけてこれを言われ、ああそうだとも、大体おれはジャンルの区別なんか問題にしていないんだと居直りながら、内心、安吾は傷ついていたと思う。この人、“小説家”以外にわが身を分類したことなど一度たりとなかったろうから」

このような書き方は、惚れていたら、書けない。

私は、坂口安吾とピカソに対する熱烈なラブレター的な本なら書けるかもしれないが、彼らを分析することは、できない。惚れた男であれば、そのすべてが愛しく見え、愛しく聞こえ、愛しく思えてしまう性質なので、とてもじゃないけど、できない。

この本は、一時期、坂口安吾に強烈な影響を受けた著者が、月日を経て、冷静に安吾文学、安吾の目指したものは何だったのか、について考察 したものだ。

興味深く読み……というのは、私が手放しで大好きな坂口安吾について、批判的な要素がふんだんに入っている本を読んだのは初めてだったから……、つくづく感じたのは、自分とこの著者のような人との決定的な違いだった。

著者は、たぶん、「作品」を評価の対象にする。それを作った人がどんな人であったかということは重要ではない。文学に限らず、音楽にしても絵画にしても、これはおそらく「芸術」にふれるときの、正しいふれ方だ、と思う。

けれど、私はどうしても、もちろんとっかかりは「作品」だけれど、その「人」に興味がいってしまう。それを作った「人」に。その人の思想、生き方というものに。

そして、人が欠点というところも含めて激しく共鳴してしまうと、たいへんなことになる。耽溺してしまうのだ。

私は坂口安吾が、ペンを走らせ、原稿用紙の上にとどめた言葉の一言一句が、撫でたくなるほどに、好きだ。

早朝、車のフロントガラスや落葉が凍る季節になった軽井沢で、坂口安吾に対する愛を再確認するのでした。

11月 10, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/11/06

「熱帯感傷紀行」 中山可穂

「なぜわたしはこんなところで、ひとりっきりで、こんなにも美しいものを見なければならないのか?」

無音の悲鳴を聞いたように思った。みごとな一文だと思った。失恋の痛み苦しみは、身体が弱ったときや、つらいこと、醜いことにぶちあたったときにも、痛感するけれど、やはりもっともこたえるのは、美しいものにふれたときだと思う。すくなくとも私はそうだ。

大好きな中山可穂の作品には、共感を超えた感動を多々味わっているけれど、やはり、自分は彼女よりそのエナジーが少ないだろうけれど、似た何か……やけどするくらいに熱い何か……を感じるから、ゆえに、大好きなのだろう。

この紀行エッセイは、失恋した中山可穂が、そのひとを忘れるために一人旅に出る。けれど……。旅のさきざきで、甦る記憶。

「わたしのたったひとつの望みは、記憶喪失になることだった。あのひとにつながるすべての記憶を忘れたい。忘れなければ生きていけない」

日常に忙殺されて、希薄になっている、情熱にふれることができて、やはり、大好き、中山可穂、としみじみ思う夜なのでした。

11月 6, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/10/26

「夜と霧」 フランクル

「ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ」

なにかの拍子で、突然に深い森の中に迷い込んでしまったとき、「夜と霧」を読みたくなる。いくつもの箇所にラインが引かれ、書き込みがなされたこの本に、いままで、いくどなぐさめられたことか。

今回は、ユーモアについて述べられた箇所がぐっと胸にしみた。「ユーモア」。これはつねに私のなかで、重要度において、高位にランクされているけれど、深い森の中に迷い込んだときには、私の体内に身を潜め、その存在すらないかのようになる。

森の中で迷子。

この気分は、ようするに周囲との距離を失い、状況にうちひしがれていることから生じるのだ。そのときは、わからないけれど、後になっていつもそう思う。いつもいつも太陽の方を向いて歩いていけたらな、と思うけれど、四十年生きてきて、そうはできないのだから、受け入れるしかない。

ちあきなおみが歌う「夜を急ぐ人」を聴いて、胸が熱くなる性質なのだから。「かんかん照りの昼は怖い。正体あらわす夜も怖い」って彼女は歌うのです。

10月 26, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/10/24

「恋愛日記」 トリュフォー

「書くこと。それはどんな形であれ、他人に裁かれることだ」

DVDで鑑賞。

足フェチで、とにかく女性が大好きな主人公が、自分の女性遍歴を書くのだが、タイプを頼んだ女性に「不快です」と言われてしまう。

そして冒頭のセリフがきて、

「タイピスト女史の判決に私は正直に打ちのめされた。最初の読者に見放されたのだ。一時は書く気をなくしたが、自伝や回想録の古典を読み、自己を語る方法を学び、表現の法則を求めた。しかし、それぞれ異なり独創的で個性が輝いている。一行一行が作者独自の文体だ。その筆致(エクリチュール)とは指紋のようなものだ」

と続く。

「指紋のようなもの」。

この発見によって、主人公は一気に作品を書き上げる。

そう・・・。

けれど、単なる「指紋」ではだめだ。強烈な芳香と強烈な輝きを持つ指紋を、私は持ちたいのです。

10月 24, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/10/20

「続 女の男性論」 大庭みな子

「疑いもなしに生き、伸びて行こうとするもののさまを見つめるとき、後ずさりし、言葉を交さずにその場を立ち去りたいと思う。

 自分に疑いを持っている者は、疑いを持たない者とは対等に話すことなどできないのだ」

「いのちの叫び」というタイトルのエッセイの冒頭。

大庭みな子には、たいてい、激しく共感し、好きだなあ、と思うのだけれど、そして、この部分にも、はっと胸をつかれるほどに、共鳴するのだけれど、なぜだか今日は、「自分に疑いを持たない者」に対して、憧憬に似た感情を抱く。

これは、ここのところ何年か、自分のことを疑いすぎてやってきた反動かもしれない。もちろん、基本の気質は変わらないので、「疑いを持たない者」に変身することはできないけれど、何事も過多はよくないのだから、ほどほどにしておかないと身が持たない。だから、すこしは「疑いを持たない者」と接して、なるほど、このようなモノの考え方をすればよいのか、と勉強することも、本気で、必要かもしれないと思う。

とはいえ、私は根がひねくれているから、こんなことを書きながらも、実は、「でも、私は絶対的に『疑いを持つ者』を愛す」と確信しているのでした。

10月 20, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/10/16

「若きウェルテルの悩み」 ゲーテ

「不機嫌は怠惰と似たものです。その一種です。われわれの性情はともするとそれに傾きます」

「不機嫌は、むしろ、自分のくだらなさに対するひそかな憤懣ではありませんか? 愚劣な虚栄によって煽られた嫉妬とつねに結びついている、自己不満ではありませんか?・・・」

ウェルテルが「不機嫌」について、熱く語る箇所から。

不機嫌は怠惰。

不機嫌は自己不満。

そして、

不機嫌は悪徳。

これを読んだ翌朝、寝不足で体調が悪く、不機嫌な顔をしている自分自身に気づき、「不機嫌は怠惰、自己不満、悪徳! いけないいけない・・・」と戒めたが、なかなか難しかった。

不機嫌は、むしろ、体調が大きな影響を与えるのかもしれない。それから、たとえ不機嫌であっても、対応する相手によっては、それを隠すことが可能だ。とすれば、外に現れた不機嫌は、相手への甘えがあることへの証拠。甘えられる相手がいることは幸福でもあるが、甘えすぎると、幸福が崩れる。甘えすぎは愛情表現では、けっして、ない。甘えすぎを抑えようと、不機嫌を、できるかぎり抑えようとする、気持ちの動きのほうが、より愛情表現に近い、と考える夕暮れです。

10月 16, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/10/10

「ロレンス短編集」 ロレンス

「問題は自分自身ね。自分が自分自身であり叉自分自身の神に仕えているかどうかということよ。」

短編集「春の陰鬱」のなかのヒロインのセリフ。

昔の恋人がヒロインに、新しい恋人とうまくいっていて良かったね、といったことを言うと、それに答えて、彼女は「でも男なんかそう問題じゃなくてよ」と言う。そして冒頭のセリフが続く。

恋に溺れてめろめろなのも好きだけれど、こういうのもいい。私はここにある何に惹かれて黄ばんだ文庫のページの端を折ったのだろう。

やはり、何をおいてもまず自分自身であるということ。これがないと、たぶん、私が自分のなかで重大事としている恋愛も、私が望む形のものにはならない、と思ったからか。

ラストでヒロインは、新恋人から結婚を急かされるが、それに対して次のように言う。

「でも何故私達はすぐ結婚しなけりゃならないの?」……「結婚したって、これ以上の何が得られるの? このままでいるのが一番美しいのよ」

このセリフに対しては、ページの端を折らなかった。だって、結婚したってしなくたって、そう、どちらにしても、「このまま」「一番美しい」季節を継続するのは、不可能でしょう。

10月 10, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/10/05

「孤独について」 中島義道

「ニーチェの不可解きわまる思想のうち、私がごく最近了解し始めたことがある。それは『何ごとも起こったことを肯定せよ。一度起こったことはそれを永遠回繰り返すことを肯定せよ』」という「運命愛」と名づけられている思想である。つまり、私に起こったことすべてを「私の意志がもたらしたもの」として捉えなおすことだ。」

中島氏の著作は、たいてい、面白い。私は好きだ。

「孤独について」のサブタイトルは「生きるのが困難な人々へ」。

ニーチェの「運命愛」についてのくだりは、現在の私に強く響いた。このところ身の回りに起こっている、人との出逢い、摩擦、失望、恐れ、ときどき悦び、再び失望・・・といった事柄も、「すべて、私の意思がもたらしたもの、すべて、私が選びとったもの」と考えれば、なにやら、そんな気もしてくる。もちろん、すごく無理をしなければそう思えないこともあるけれど。

いいえ。そうなのだ。すべて自分の意思がもたらしたものなのだ。

そのように、うなずくことができる時は、いつもよりも視線が冷酷になる。おどおどとした色がなくなり、冷酷に強さ(傲慢さ)がプラスされる。背筋が伸びて、人生短いのだから、やりたいことはできるだけ早いうちにやっておかなければ、と思う。

ずいぶん、飛躍しているようだけれど、私の思考はどうしても、そのように流れてしまうのでした。

10月 5, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/10/03

「女の男性論」 大庭みな子

「欲望にまつわる哀しさや歓びを知らない人間は魅力がない。美食をしたこともなければ、飢えたこともない人間は殺風景なテーブルに肘をついて殺風景な話しかしないものである。性的なものの中で多くの人格が培われる。尊敬、愛情、闘争、克服といったものを自然な形で修得する。性的なものに熱中できない人間はあらゆる情念に不感症である場合が多い。」

27年前に刊行された本なのに、新鮮どころか、時代の先を行っている、と思わせるエッセイ集。大切な本の一つ。

これを読みたくなったのは、自分のやり方に、かくん、と自信がなくなって、迷ってしまいそうになったから。

冒頭に引用したのは、「幸福な夫婦」というエッセイの中の一部。今回は性的なもの・・・云々についてよりも、「欲望」を扱った一文に、うたれた。

・・・欲望にまつわる哀しさや歓びを知らない人間は魅力がない・・・

欲望欲望欲望・・・親しい友から、さいきん言われた言葉。けっきょくのところ、あなたは人間の欲望というものに関心が集中しているのね。それでそれを他人の言動ではなく、自分自身を通して知ろうとしているのね。

そう。でも、ときおり、ばたっと倒れそうになる。ぜんぜんそんなのと違うところに身を置きたくなる。けれど、いつもいつも舞い戻ってくるのです。やっぱり生きる場所はここしかない・・・といったかんじで。

10月 3, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/09/28

「ユニコーン」 アイリス・マードック

「彼は時々自分がマックスに恐れの感情を抱いていることに気がついた。彼が恐れるのは老人の悪意でも、批判でさえもなく、ただマックスとの接触によってなんとはなしに自分の個性が消滅して行くことだった」

マックスは「彼」にとっての恩師にあたる人物。

「彼」がマックスに対して抱くような感情を、ある人に抱くことは、私にもあるかもしれない。いま、特定の誰かの顔が思い浮かばないのは、たぶん、私の場合は、その時々の自分と相手の気分の波によって、それが訪れるから。もちろんそうなりやすい人とそうでない人というのはいるけれど、ときおり、話している相手に「恐れの感情」を抱き、「自分の個性が消滅して行く」感覚を味わうことがある。

そして、ときによって、それをうとましく思ったり、自己嫌悪したり、個性の消滅感覚に快さを味わったり、する。

そして、いつものように、他者と自分との「組み合わせ」に考えが泳いで、窓いっぱいに広がる緑の葉と秋晴れの朝の空を眺めながら、もしかしたら、この組み合わせというものも、個と個だけでは測れない、その瞬間の、互いの「気分の波」が強く影響するのかも、と思うのでした。

9月 28, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/09/22

「読書する女」 レイモン・ジャン

「ねえ、君、人生では誰もが自由で、誰もが独りなんだ、したいと思ったこと、楽しいと感じることをすればいい、でもそれには人に意見を求めてはいけない……」

主人公に恩師が言う言葉。

目新しい言葉ではないのに、はっとしたのは、「でもそれには人に意見を求めてはいけない」という部分。

人の意見というものに、ほとんど耳をかさないでいるのに、ときに、人の意見に人生をゆだねたくなるのは、もしかしたら、そのとき私は、投げやりになっているのかもしれない。何に? 人生に。

そんなふうに突如として思って、今は、敢えて、人に意見を求めてはいけないのではないか、と思いました。

いつもの就寝前の読書タイム、ベッドのなかで。

9月 22, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/09/15

「アイリス・マードック 随筆・対談集」 室谷洋三 編

「世の中には色々なタイプの人がおり、人間関係にしても、男女の結婚が唯一の『正しい』つまり『豊かな』『意義ある』関係という訳ではない。同性愛者として生きていこうとすることは、私が述べてきたような理由から危険な選択であるだろう。しかし独身を通すことも危険な選択であり、結婚するのもそれに劣らず危険な選択である」

「同性愛と倫理」というエッセイの中から。

同性愛が社会的に全く認めていられなかった(病気の一種とされるほどに)時代(1964年)に発表されたと考えれば、アイリスの思考の深さがよくわかる。

すべてが危険な選択なのである、という考えに私は全面的に、共鳴する。

人がその歴史において、たとえば国を統治しやすいから、といった理由なんかで作り上げた制度に縛られて平気で、何も感じないということは、真実、精神の不自由さを物語ると思う。

このエッセイのラストは次のように結ばれている。

「人間は互いに異なっているものであるという当然の事実を、寛容な態度を持って認めることである」

幾人もの人たち、作家が書いてきたことだ。表現してきたことだ。じゃあ、私が自分の中から出したい、表現したいと思うことは、意味がないのだろうか。

そういうわけではない。どんな経験をしてきた人から、「それ」が、どのような道筋を通って生まれてきたのか、が肝心なのだろうから。誰が、いつ、どのような状況で「それ」を表現せざるを得なかったのか、ということが大切なことなのだから。

と今朝は自分自身に言い聞かせています。雨空を眺めながら。

9月 15, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/09/14

「彼女を見ればわかること」 ロドリゴ・ガルシア

「女の人生を推測するなんて愚かしいわ。出口のない人生に疲れたのよ。かかってはこない電話。守られることのない約束。同じ石につまずく日々・・・。彼女の心の奥などわからない。無理なのよ。誰とも分かち合えない」

DVDで鑑賞。ガス自殺をした一人の女性について、その原因を刑事である姉が調査するのだが、キャメロン・ディアス演じる妹(盲目)が、それについて語るのがこのセリフ。

私もよく自殺のニュースなどに接するたびに、同じようなことを思う。人は他人の自殺の原因を特定したがるけれど、それは自分自身が安心したいからだ。もやもやとした、未知のことについて、人は恐れを抱くものだから。

けれど原因を特定しようとすることは無意味なのだ。おそらく、そこには、さまざまな要因が蓄積されている。もちろん重大なものもあるだろう。が、一方で他人から見れば、そんなささいなこと・・・と驚くような、本当にささいなことも、そこには含まれている。そういうのが蓄積されていって、あるときは、同時期に積み重なって、そして、最期のスイッチに手を伸ばしてしまうきっかけは、それこそ、すごくすごく、ささいなこと。

たとえば、冒頭のセリフではないけれど、かかってくるはずの電話(それは恋人でなくても、友人知人とかでも)がかかってこない、そういうことで、最期のスイッチをオンにしてしまうのではないか。

この映画は、私にとってはとても面白かった。五人の女性の、人生のある時間が描かれ、それが、少しだけ交錯する。

一晩経って、この映画の核はやはり、このセリフにあるのではないか、と思った。

「彼女の心の奥などわからない。無理なのよ。誰とも分かち合えない」

人生はたいていは肌寒い季節なのだ、そう思うと楽しくはないけれど、これまた、一つの事実なので、受け入れるしか術はない。

ときおり、ぽかぽかの季節や、焦げるほどに熱い季節などがあったりするから、まだ続けてゆきたいな、と思うのです。

9月 14, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/09/12

「厚化粧の女」 フランソワーズ・サガン

「それならその人は相手を本当に愛していないんですよ」

「愛し過ぎているとも言えるんじゃないでしょうか?……」

「同じ事です」

愛について登場人物の二人が交す会話。相手のことを本当に好きなら、相手に夢中になっているならその人の望むことは、なんでもしたいと思うはず、という女に対して男は、それは愛ではない、と言うのだ。

愛しすぎることは、本当に愛していることとはいえない。

というこの理屈に反応したのには二つの理由がある。一つはとても単純で、教訓的に共感したから。たしかにね。あなたのこと、ほら、こんなにこんなに愛しているのよ、と迫られて、おなかがいっぱいのところに、一方的に愛を注がれて、幸福いっぱになる人は、稀だろう。愛はやはりときどき、放任、無執着が必要だ。

もう一つは「本当に愛している」というその言葉に違和を覚えたから。

いったい、「本当に愛する」とは何なのか。本当の恋、本当の愛。自分自身が、「これは本当よ、私にとっては真実の愛」と思っていても、他人は「そんなの真実の愛じゃないよ」と思う、そして時々それを口にする。

恋とか愛とかに本当も真実も嘘もないのではないか。

一瞬一瞬の胸の温度だけが、大切な事実であって、それが持続するか否か、あるいは、命云々、といったことで、「判断」するのは、下品な行為ではないか。

もちろん、私はいろんなところで、「これが最後」、あるいは「このまま死んでもいい」と思えるくらいの恋愛でなければ、ひまつぶしにもならない、と書いてきた、言ってきた。

そして、この考えは今でも変わらない。けれど、このような恋愛は、一生に一度、体験できれば幸福(そのさなかにあるときは、とてもじゃないけど幸福という言葉は頭に浮かばないけれど)なことであって、だから、それ以外のものを否定していたら、人生は禁欲的で退屈にならないだろうか、と近頃は思う。

だいたい、「ちょっと心ときめく人」に出逢うことさえ、とても希少なのだから、その数少ない貴重な出逢いを、やはり否定したくはない。

本当か本当じゃないか、なんて誰にもわからない。絵画と同じで、観る角度を変えれば、まったく違った印象になるのです。

9月 12, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/09/08

「アイリス」

「あくなき幸せの追求、その鍵はイマジネーションの力です」

アイリス・マードックの言葉。哲学者であり作家である彼女の生涯を描いた映画。晩年アルツハイマーにかかってしまうのだが、言葉を生み出すことが、生きることそのものでもある彼女が言葉を失ってしまう過程は、観続けるのがやっとのほど、辛いものだった。

夫は彼女を崇拝し、彼女を、彼なりに熱愛している大学教授。けれど、彼は彼女を晩年になってもなお、自分だけのものにできないことと、彼女のなかに自分がけっして立ち入ることのできない「秘密の」領域があることを知っている。

だから、妻がアルツハイマーにかかり、自分なしでは生きることができなくなったとき、ある種の、愛の手ごたえを感じる。

この映画は「愛の映画」として評価されているけれど、そして確かにそうなのだろうけれど、私は男女の、周囲からは「愛」としか表現されないものの中にも、なんとも複雑で混沌としたエゴイズムがあるのだと、ひしひしと感じて、背筋がぞっとする想いだった。夜観たのですが、暗い気分で、それは翌朝までひきずってしまったのでした。

9月 8, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/09/06

「写真生活」 坂川栄治

「運命の糸はどこかでこんがらがり、どこかで結び付き、どこかで奇跡を生む。・・・糸がたくさんの障害や幸運の狭間をぬって伸びていく姿を想像する。糸を引っ張る力とは何だろう。それは老若を問わずのインスピレーションと情熱だったのじゃないだろうか」

坂川栄治の、写真への愛、写真との出会い、そして写真との魅力的なつきあい方、が綴られた本。

私の知らない写真家が多くとりあげられていて、そして、その写真家(写真)との出会いが情熱的に語られているものだから、読み終えたあと、全部の写真集が欲しくなったほどだった。

それにしても、運命の糸を「引っ張る力」は「インスピレーション」と「情熱」なのだと、いうくだり、そうよ、まさにその通りよ、と口に出して言ってしまったほどでした。

インスピレーションと情熱。

あらためて、胸におしつけましょうか。

9月 6, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/09/04

「デュラス・愛の最終章」

「私を愛してる? あなたが愛しているのは私じゃなく、作家の私よ、認めたらどう?」

DVDで鑑賞。

66歳のとき、38歳年下のヤン・アンドレアと出逢ったデュラスの、最期の愛人と過ごした最期の16年間。

主演がジャンヌ・モロー。孤独でいれば、愛人に去られる恐怖もないけれど、愛人と過ごす喜びもない。

そのあたりのことで揺れながら複雑にヤンを求めヤンを愛するデュラスの姿に、なんども目の奥が熱くなり、ときどき、涙が出た。

デュラスが「世界一美しいシャンソンよ」と言ってかける曲が「カプリ セ フィニ」。この場面はもっとも美しい。そして、ドライブしながらハミングする「ばら色の人生」。

私はデュラスの作品にあまり共鳴しないけれど、官能に自由なひとにとっては、38の歳の差も問題ではないのだ、と思えるほどに、久しぶりに直球ど真ん中に命中したような、そんな映画でした。

9月 4, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/09/01

「家庭」 フランソワ・トリュフォー

「家庭を出ずして、家庭を守れない」

DVDで鑑賞。

自分の恋が元で、新婚の妻と別居している主人公アントワーヌが娼館に行き、そこで知人とばったり出会ってしまう。そのときに、知人がなにくわぬ顔で言うセリフ。

これをまったく身勝手な男の自己肯定のセリフと見るか、そこにある種の真実を見るか。分かれるところだろう。

アントワーヌの恋の相手はキョウコという日本女性で、このキョウコという女性の描き方が、コミカルで楽しかったです。

それから特典で、トリュフォーがテレビ出演したときの映像があるのだが、顔にいっぱい汗をかいて、不器用に応対する様子に、非常に共感した。彼にインタビューしたり、自分の意見を述べたりする番組側の男性は、横柄で落ち着いていて自分の意見にすごく自信を持っているようで、私はこういう男を、見ているだけで苛ついてしまう。実際出会ったら、絶対苛めてやりたい、と思うけれど、反対にやられてしまうのだろう。

なので、なるべく出会わないように、彼らのような人たちをよけながら人生を歩くことが必要となるのです。

9月 1, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/31

「獄中からの手紙」 ローザ・ルクセンブルク

「すべては、苦悩、別離、そして渇望、この三つに帰着するのです。ひとは、いついかなるときでも、このすべてを甘受せねばなりません。そして、すべてはうるわしく立派なものです。」

獄中にあるローザ(革命家)が、親しい友人ゾフィに宛てた手紙の一部。ゾフィはローザに宛てて、今自分が「ふさぎの虫」にとりつかれていて、「逃れ道もなくもがいて」いることを綴った上で、「どうして何もかもこうなんでございましょう?」と嘆いているらしい。

それに対して、ローザは言う。

「あなたは子供ね。『こういう』のがとりも直さず人生というもの、それは昔からそうときまったものです。」

そして、冒頭に掲げた文章を続ける。

ローザは、こうした知恵について、「頭をひねくって考え出した」のではなく、自分は「ただたんに生まれつきそういうふうになっている」のだと言う。

「これこそが生を享ける上に、唯一無二の正しいあり方であると、わたしは直感を持って感じます。ですからわたしは、いかなる境遇に自分が置かれようと、心底からの幸福感を失うことはありません。」

牢獄にいても、そうなのだ。

夏の終わりの軽井沢の空の色は、晴天だけれど少し薄くて、仕事場の窓からそれを眺めながら、苦悩、別離、渇望、について考える。

渇望ならば、甘受・・・なんとか、できるかもしれない。

苦悩はどうか。・・・難しい。

別離にいたっては、未だ強烈な経験がないために、わからない。だからとてもこわい。未知のものに抱くおそれを、強く感じました。

8月 31, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/30

「水彩画のような血」 フランソワーズ・サガン

「ワンダとも何と多くの役柄を演じてきたことか。分別のある監督と勝手気儘なスター、物静かな夫と不倫の妻、浮気する愛人と家庭的なスター!」

映画監督である主人公は、妻ワンダと、美青年ロマーノを愛している。有名女優である妻ワンダとの結婚生活(通常私たちが想像するようなものではない)について考えを泳がせたときの彼の心情。

結婚生活において、多くの役柄を演じているのは主人公だけではなく、「自らの人生」について意識的に生きている人であれば、たいていは、それが多くはないかもしれないけれど、少なくとも、いくつかの役柄を演じているのではないか。

私自身は、最近とくに強く感じていることだが、その役柄が多ければ多いほど、生きている実感を得ることができるようだ。

ところで、この主人公が自らに問う、次の言葉も印象的だった。

「自分自身を少しも愛さずに、二人の人間を同時に愛することなんてできるだろうか。」

主人公は自らについて、「ぼくの血管の中には血など流れていない、流れているとしても薄くなった血だ、水で薄めたような血、水彩画のような血だ」と認識しているような人間。

それでも、二人をこれほどまでに愛せるということは・・・・・・、というあたりがポイントになってくるのだけれど、やはり、そう、自分を愛せなければ、相手が一人でも、かなり無理があるし、二人ともなれば、絶対不可能だと、私も思う。

とすれば、自己愛の強い人ほど、他者を愛せる、となる?

とは、私には言えない。

けれど、愛とか情とか、そういうのをもともといっぱい持っている人と、そうでもない人と、けっこう少ない人、というのはあると思う。

だから愛とか情とかそういうものをたくさんもっている人は、それを自分にも注ぐし、他者(惚れた人)にも注ぐのだと。そうせずには、自家中毒を起こしてしまうから、そうしないではいられないのだと。

そのように思うことは、あるのです。

8月 30, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/29

「海からの贈物」 リンドバーグ夫人

「どの女も、男も、

もって生まれた迷いから、

適えられないことに心を焦がし、

普遍的な愛だけではなくて、

自分だけが愛されることを望む。

(W.H.オーデン)

私のバイブル本のひとつ。

リンドバーグ夫人はこの句について、これは罪なことなのか? と疑問を持ち、インド人の哲学者と話をする。彼は言う。自分だけが愛されることを望むのは構わないが、「いつまでも自分だけが愛されることを望んではならないのです」と。

リンドバーグ夫人は頷いて言う。

「我々は『二つとないもの』、――二つとない恋愛や、相手や、母親や、安定に執着するのみならず、その『二つとないもの』が恒久的で、いつもそこにあることを望むのである。

つまり、自分だけが愛されることの継続を望むことが、私には人間の『持って生まれた迷い』に思える」

そして続けて、「二つとないものなどはなくて、二つとない瞬間があるだけ」と言う。

最近、強く感じていることと関係が深く、当たり前のようで当たり前でなく、忘れがちなこと。

二つとないもの・・・。二つとないモノ・・・二つとない物・・・。これは「かたち」。これが、このところ私はとても嫌いなのです。

8月 29, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/22

「パリの男たち」 朝吹登美子

「詩人は死によって、全き自由の、反対側の世界から第一歩をふみ出す」

ジャン・コクトーの最期の言葉。

1963年、10月11日。エディット・ピアフが朝の8時40分に亡くなった。ジャン・コクトーはこの知らせを正午頃に聞いて、「惜しい友だちを失った」と言った。そして、「昨夜熱が三十八度もあって悪寒がして眠られなかった。今日がこの世の最後の日だ」と家人に言った。そして、午後一時過ぎに、亡くなった。

シャネルも、そういえば、「私、確かだわ、人はこのように死んでいくのよ」と確信して亡くなったのだった。

「パリの男たち」は、朝吹登美子の、華々しい交遊録であるけれど、それだけではない、日常のなかでふとすれ違った、いわゆる無名の男たちも登場し、私は須賀敦子を思い出した。

1965年に講談社から刊行され、長らく絶版になっていたものを、人文書院が再刊。再刊は1978年のことだ。

本って、生まれて、それから姿を消して、再び生まれ変わったりするのだ。そんなことにへんに感嘆しました。

8月 22, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/18

「ドロテア・タニング」 ドロテア・タニング

「私たちのあいだには時間が、まさに一刻一刻秒読みできるような時間が流れていた。それはあまりにも長く、またあまりにも密だったので、いつの間にか「彼」というのはほとんど「私たち」と同義語になってしまった」

画家ドロテア・タニングがシュルレアリスムの巨星と呼ばれるマックス・エルンストとともに過ごした三十余年について語った書。

もう、違うシーズンにいるのだから、と納得し、そこに違うシーズンならではの悦びを見出している、そんな生活をしているけれど、このような記述に合うと、ふるえてしまう。

ここには、やはり私の好きなものがある。男と女が出会い、インスパイアし合い、互いのもっとも価値ある部分を引き出すという関係性が。相手は一人で充分、という関係性が、あるのです。

8月 18, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/17

「それでも人生にイエスと言う」 V・E・フランクル

「しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。」

自分の今の気分に最も合ったのはどれでしょう。と本棚の前にたたずんで、取り出した一冊。やはり、こころに染みるフレーズがたくさん。

「生きるとは、問われていること、答えること――自分自身の人生に責任をもつことである。」

そうなのでしょう。答えたいし、責任ももちたい。しかし、それがなかなか・・・。

と、意気消沈しそうになるが、次のフレーズで再び元気になる。ドイツの詩人ヘッベルの言葉の引用。

「人生それ自体がなにかであるのではなく、人生はなにかをする機会である!」

人生というチャンスを与えられて、私が今までしてきたこと、これからしたいこと、を考える。ほら、一筋の光が見える。見失わないように、心の真ん中の芯だけは(ほかがぐにゃぐにゃでも)しっかりとさせて、今日という日を過ごしましょう。

8月 17, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/15

「アドルフ」 コンスタン

「恋以外の他のすべての愛情は、過去を必要とする。だが恋は、あたかも妖術のように、一つの過去を創造し、その過去でわれわれを包む。・・・・・・恋は一つの光点にすぎない。にも拘わらず、それは永劫にわたっているように思われる。つい数日前まではそれは存在していなかった。そしてまた間もなく消えてしまうであろう。だがそれが存在する限りは、その光を、あとに続く時の上に投げかけると同様、過ぎ去った時の上にも投げかけるのである」

恋のはじまりから終わりまでが、じつに甘美に、そして、あまりにも残酷に、描かれた物語。

未来だけではなく、過去をも創造してしまうのが恋。と、コンスタンは言う。やはり、恋というものは、どうにもおかしな、でも強烈でクレイジーなモノなのだ。

今回、私は「恋のエナジー、過去をも創る」といった部分に大きく頷きました。そうか、だから、恋をすると、会ったばかりなのに、「いままでもずっとこの人と一緒に、こうしていたみたい~」という感覚になるのだな、と。

8月 15, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/14

「アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶」

「逃げ去るイメージ」

“20世紀最大の写真家”ともいわれるブレッソンの写真集のタイトル。英語版ではこれが、「決定的瞬間」となっている。「逃げ去るイメージ」のほうが、すとんと胸におちるのに。

一時間ちょっとのドキュメンタリーを恵比寿ガーデンプレイスの写真美術館で鑑賞。ブレッソンの言葉で、胸に響いたのがあるのだが、メモしなかったので正確ではない。

でも、次のような内容のことだった。「写真をとるために生きるのではなく、自分の人生を生きる、そして写真を撮る」。ようするに、「人生の目的が、写真を撮ることにあるのではない」といったことを、私は彼の言葉から感じた。

アーサー・ミラーも出演し、マリリン・モンローの写真を見ながら、「ここには彼女の知性がある」と言っていた。はじめてみる、モンローの写真だった。あまりにも美しくて、ミラーが言うように、知性ある美しいひと、がそこにいて、目を奪われた。

それから、エディット・ピアフのポートレートも。華やかではないけれど、彼女がたくさんの襞をかかえた女性であることをつきつけたような一枚だった。

逃げ去るイメージ。ここ一週間のうち、二回も、自分のなかで永遠にとじこめておきたい一瞬を経験した。逃げ去らないうちに、焼き付けたい、と思いました。

8月 14, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/08/11

「愛と同じくらい孤独」 サガン

「わたしの場合は幸せが好きですから、かなえられない欲望は持ちません」

クライシスモードのときに、手にするバイブル本のひとつ。

結婚や恋愛、人生についての名言満載なので、読むたびに心に響いた箇所にラインを引くから、数種類の色のラインでごちゃごちゃ。

今回は、ラインがまだ引かれていない箇所。かなえられない欲望は持たない、って、サガンの場合は、他の人たちとくらべて、「かなえられない欲望」のアンダーラインが高いのだろうけれど。この一言に、目が釘付けになってしまった。次に続く言葉も、簡単なようで、私にとっては意味深いものだ。

「自由というのは、楽しんだり、感動したりすることに素直に身を委ねることだと思います」

自由であるためには、自由であるがために、踏みにじったものたちに対して無感覚でいる努力を必要とするのだろうか。それとも、感じない気質体質を基本的に必要とするのだろうか。

……おそらく。

まったくの自由なんて、ありえないし、たぶん、私は、求めていないのでしょう。

8月 11, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/08

「女の学校」 ジッド

「ロベールさんのそばにいてはじめて、私は自分に何が欠けているかがいちばんよくわかる」

ロベールというフィアンセに恋するヒロインが日記に綴ったフレーズ。

私たちは、いろんな人に会うけれでも、相手が男性であれ女性であれ、「自分に何がかけているか」がよくわかる人と会うことを、「出会い」あるいは「出逢い」(←私はロマンティックなほうには、この漢字を使うことが多い)というのではないか。

今までの恋愛を思い起こしてみても、みな、このような感覚を抱いた人ばかりだった。「出逢い」だった。

女性に対しても、好感を持ち、今度もおつきあいしていただきたい、と願う人は、私に同様の感覚を抱かせる。これは「出会い」だわ、と思う。

逆に、「もう会わなくていい」と思う相手には、このような感覚は抱かない。自分にはない何か、を感じるところまでは一緒でも、それを「自分に欠けている」とは受け取らない。「なくてよかったもの」として受け取る。ただ「会った」だけで、「出会いではない」。

「女の学校」は、「ロベール」「未完の告白」の三部作の第一作。三作続けて読んで、ひじょうに面白かったです。

8月 8, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/08/07

「8miles」

DVDで鑑賞。ヒップホップ界のスーパースター、エミネムの半自伝的映画。

ヒップホップ、ラップ、エミネム……、すべてにちんぷんかんぷんな私が、なぜか、とても楽しめた一本。

この主演男優は誰? まなざしの力がすごすぎる。

調べてみれば、エミネム本人。納得する。スターへの夢を追いかけ、極貧暮らしを続けるエミネムが、途中、友人に言うセリフ。「夢はいつ諦めればいいのか?」(←正確ではありません)に、ぐっとくる。

また、仕事に向かう途中、わずかな時間でもメモ片手に、創作に熱中する姿にも。以前私も、常に創作途中の原稿を持ち歩き、仕事の合間のわずかな時間に、手を入れていました。

自分と、自分ではないすべてと、「闘う」という姿勢。これに胸熱くした一夜でした。

8月 7, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/08/05

「美しい人」

文化村のル・シネマで鑑賞。ロドリゴ・ガルシア監督の最新作。

9人の女性が登場する9の物語。第2話にもっとも共鳴した。

かつては恋人同士だったふたりが夜のスーパーマーケットで再会する。ともに心が揺れ動くが、お互いに別の相手と結婚しているという状況。

過去の話になったり、現在の話になったり。

まだ君のことを想っている、という男に女が言うセリフ、いくつか。

「傷ついても怒ってもいない。悲しかっただけ」

「私たち、何なの? まるで恋人同士みたいだわ。あなたといると、私の人生が虚しく思える」

「あなたの存在が私を飲み込んでしまうの」

強烈な存在だったのでしょう。けれど、一緒に人生を生きることはできなかったのでしょう。けれど、その存在を目の当たりにすると、感じると、その強烈さに、現在の生活が急激に色褪せて見えるのでしょう。そういう相手、そのような瞬間、とてもリアルに甦った一遍でした。

8月 5, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/08/01

「ポール・エリュアール詩集」

「われわれは待っていたのだ おたがいの姿をみるために いつまでも 

なぜなら われわれはたずさえていたのだから 愛を 愛のわかさと

そして愛の理由を

愛の知恵と

そして不死とを」

(「戦う七つの恋愛詩篇」より)

ロマンティックが好きなのに、それから遠く離れているように感じて、久しぶりに詩集を開いた。

現実を見れば、絶望のどん底に落ちてしまいそうでも、それでもやはり信じたいものを、エリュアールの詩に見出して、エリュアールだいすき、とつぶやく夏の夕刻なのでした。

8月 1, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/31

「心優しき男性を讃えて」 アナイス・ニン

「エロチシズムの解放は、エロチシズムには無限の側面がある事実を受け入れることが鍵である。・・・・・・ まず何よりも最初に、私達は、罪悪感を覚えることなしに、官能性に広がりを持たせることを考慮しなくてはならない。そしてその官能性が齎す(もたらす)さまざまな、思いがけない性質や多種多様な表現方法に、いつも寛容でなくてはならない。」

この官能性を目いっぱい愉しむためには、性と愛を切り離さないことが最低限必要、と念押しすることを忘れない。

生涯にわたって、女性の官能を追求した作家アナイス・ニンの「女性におけるエロチシズム」というタイトルのエッセイ。

とつぜんに読みたくなりました。

ジッドは、再読されるものを書きたいと思っていたようで、たしかにジッドも再読する作家だけれど、私にとってアナイス・ニンのは、もっと、こう、なんというか、何かを確認したいために読む、といったかんじ。この感覚は、坂口安吾に限りなく近いのです。

7月 31, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/26

「独り居の日記」 メイ・サートン

「ヴェージニア・ウルフの『ある作家の日記』には大いに自己専念はあるかもしれないが、自己憐憫はない。・・・真実として残るのは、どれでも彼女の本をとりあげたとき、生きているという、より強い意識なしにはただの一ページも読めないことである。芸術が生命を高めるものでなかったら、いったいどんなものであるべきなのだろう?」

私の好きな作家が、私の好きな作家のことを、私と似たように感じていることを発見したときの、高揚がある。

「自己専念」と「自己憐憫」、これはまったく違うのに、しばしば無理解によって誤用される。

「自己愛」という言葉もある。私についてまわる言葉の一つ。自己愛は自己憐憫も含むのだろうか。私は自己愛を否定しないけれど、そこから自己憐憫を差し引いたものとしての、自己愛でありたいと思う。

ときおり、無為に日々を過ごしている感覚に襲われて、自分を責めたくなるとき、思い出すのは、次の文章。

「日記の数行も書かず、何も産みだす事を期待しないことが、時々どんなに大切であるかを、私は忘れがちである。自分を限界まで使わなかった日は、害のある、損なわれた、罪深い日であると。

精神(サイキ)に対して私たちのできるもっとも貴重なことは、時折り、それを休ませてやり、遊ばせてやり、光の変化する部屋の中に生かしてやり、何かであろうとつとめることも、なにかをしようとも、いっさいしないことだ」

あとで思えば、あの時期は、必要だったのだ。たしかに、あの無為に感じられた日々にも、自分のなかで、なにかが確実に発酵していたのだ、と思えるのに、その日そのときには、なかなか、「これだって意義ある時間」とは思えない。

これが、そう思えるようになったなら、もっと呼吸が楽にできそうに思えるのですが。

7月 26, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/25

「未完の告白」 ジッド

「心にかかる問題を言い出しもできずに、時計の長針にこの一点を通り過ぎさせてしまうようなことがあれば、私は自分が臆病者であるということ、一生自分を信用できなくなるということを、知らねばならないのだ」

語り手の少女が、ひとりの男性を前に、自分にとって重要な問いを投げかけようとしている。けれど、なかなか言い出せず、自分に勇気を与えるために、「赤と黒」のジュリアン・ソレルを真似して、心の中で繰り返すセリフ。

それほど大きな問題でなくても、言い出すことがなかなかできずに、自分に苛立つことが少なくはない私にとって、これは呪文としたいセリフ。

「それ」を言い出せなかったとき、「それほどのことではない、些細なことだったのだから」と自分を慰めるけれど、「なぜあのとき言えなかったのか」を、けっこう長くひきずるのは、言えなかったことの内容の大小ではなく、「言おうとしていたにもかかわらず言えなかった自分」がうとましいから。

そして、そんな体験を繰り返せば、しだいに、けれどたしかに、自分を信用できなくなってくる。

ジッドが、「私は再読されるために書く」と言っていたことも、この本で初めて知りました。

7月 25, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/24

「エロス幻論」 中田耕治

「人は自分を他人から、一般の人たちから区別する力をもたなければ!」

ロレンスの「恋する女たち」の登場人物のセリフ。昨夜、眠る前に突然、このセリフが頭に浮かんで、どこで拾ったのだったかと、朝一番で調べたら、この本だった。

ヘンリー・ミラー、アナイス・ニン、ロレンスについて語られている、私にとっては宝箱のような本。以前はアナイス・ニンがどのように語られているのか興味があって読んだが、今回はロレンスの章を熟読。

「ロレンスの生涯を決定した出会いは、フリーダとの恋だったことは、あまりにも有名である」。ロレンスの友人、オルダス・ハックリーも言っている。「ロレンスの唯一の深い永続的な人間関係は妻とだけであった」と。

ロレンス自身も言う。「ぼくの愛する女は、未知の世界とぼくを直接の交渉に置くような気がする。その未知の世界では、愛する女がないと、ぼくは道を迷ってしまう」。

26歳でフリーダに会い、44歳で亡くなっているので、18年間か……。すぐ計算をしてしまう私。この年月を「ものすごく長い、ありえない」とみるか、「ぎりぎりいけそうな年数だ」とみるか。

関係性は、かならず変化するものだから、18年間の間に、ロレンスとフリーダの間がどのように変化したのかが知りたい。情熱恋愛期間は、10年以内だったのかどうか、とても知りたいのです。

7月 24, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/20

「ガッジョ・ディーロ」

知友に勧められて鑑賞。監督はトニー・ガトリフ。

ルーマニアのジプシーの物語。ヒロインのローナ・ハートナーの魅力がいっぱいに溢れていた。ほんとうに、なんて魅力的な女性なのか。そして、性愛のシーンはほんの数分(1分くらい?)、そして自然の中、のびのびと、という状況なのに、なぜあんなにエロティックだったのか……。

この映画に魅せられたのは、胸に染み入る音楽と合わせて、「このように生きられたらなあ」の理想の一つがくっきりとあったからだろう。

感情を感情として表現し、「今日」という日を生きるという、これ、とっても単純なのに、どうしてこんなに難しいのでしょう。

7月 20, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/07/19

「アルマ・マーラー」 フランソワーズ・ジルー

「僕には心の底からわかっている。もし僕にふさわしく、また僕を芸術家にすることのできる人間がいるとしたら、それは君だけだ」

何度もいろんなところで書いてきた稀代の妖婦、アルマ・マーラーの男たちのひとり、詩人のフランツ・ヴェルフェルのセリフ。アルマは男たち(それもほとんど天才たち)からこのようなセリフを言われることに慣れている。相手の男、ココシュカやマーラーについて、衝撃的なエピソードがいくつもあるが、ヴェルフェルのこのセリフに今回、とくに目がとまったのはなぜか。

恋とはこういうもの、人が人に惹かれるというのは、こういうもの。そういう、熱を感じたからか。

好きな相手から恋焦がれられるのも、もちろんたまらない。けれど、やはり、自分自身が、このような想いを相手に抱いている、という事実ほど、充実をもたらすものは、今の私にとって、ないのかもしれません。

7月 19, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/18

「上海ベイビー」 衛慧(ウェイ フェイ)

「多くの人にとって、情欲と愛情は同列に論じることはできない。」けれど、「思想的に解放された」女性にとっては、「相思相愛の男性」と「自分に性的オルガズムを与えてくれる男性」両方を得ることは「理想的な状況」。

「彼女たちは言う、愛情と情欲を別々に求めることは、けっして純潔な人生を追求することと抵触しない、と。」

この「解放された」思想にはまったく賛成だけれど、頭では理屈こねまわして、確固たる信念があると思っていても、現実は、これは愛情なのか、これは情欲なのか、これは愛情7情欲3の割合、それとも、愛情4情欲6……、と混乱するものだ。少なくとも、私は。

ウェイフェイもそうなんじゃないかな、と想像する。上の文章に続けて、次のようにある。

「一日一日おのれの生命を消耗してゆく日々の生活のなかで、彼女たちは女の直感と願望によって、満足感が得られる生活のスタイルを探し当てるのである」

ここから、ウェイフェイの叫びが聞こえてくる……ように思えるのは、たんなる空耳でしょうか。

7月 18, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/14

「脂肪のかたまり」 モーパッサン

「合法的な愛は、自由奔放な愛を見下すのを常とするもの」

一台の馬車に一人の娼婦と、三人の“堅気の”人妻が乗り合わせた。「娼婦がその場にいるせいで、たちまち三人の女は、仲良しと言っていいほど親密な間柄になった。恥知らずな女を前にしては、人妻としての権威にかけ、自分たちは結集しなければならないと思ったのだ。なぜなら……」

として、最初の文が続く。

合法的な愛には美がない。と思うのはなぜだろう。法によって認められ、保証され、保護されているということが、美しくないと、思うのは。

法などによって守られなくても、存在するものでなければ嫌だ。と、結婚しているくせに、地団駄を踏みたくなるのです。

7月 14, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/13

「遊び人の肖像」 フィリップ・ソレルス

「いずれにせよ、同時に二人の女は絶対に駄目、というのが大原則! ひとりあるいは三人、あるいは四人、あるいは千人、あるいはゼロ。二人は絶対に駄目! いみじくもリヒテンベルクが言ったように――“イギリスである男が重婚の罪で断罪されようとしていた。弁護士は、彼に女が三人いることを証明して彼を救った。” これこそ基本的な掟なのだ。例外はいっさいありえない」

この掟、大きく頷ける。ほんとうに、その通りなのかもしれない。この掟に背いて「駄目!」じゃなかったことはないもの。

たとえば、自由恋愛の最大の障害、「独占欲」などで、この掟が正しいことを証明できるかもしれない。

「独占欲」などは、完全に「二人」がまずい。あとは、しょうがないか、それがあのヒトのスタイル、と強引に思い込ませることが可能なような気がする。

けれどけれど、忘れてはいけない。ソレルスは「ひとり」も肯定している。そう、相手が「ひとり」でもいいのだ。駄目ではないのだ。うっかり忘れたい気分です。

7月 13, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/10

「カラマーゾフの兄弟」 ドフトエフスキー

「肝心なのは、嘘を避けることです、いっさいの嘘を、特に自分自身に対する嘘をね。自分の嘘を監視し、毎時毎分それを見つめるようになさい」

他人にはたくさん嘘をついていると自覚してはいても、自分自身への嘘はそれほど多くはない、と思って生活しているはずなのに、このような一文をつきつけられると、考えこんでしまう。

他人はだませても、自分はだませない。といわれるけれど、果たしてそうなのだろうか。もちろん、嘘をつくことと、だますことはまったくの同義ではないけれど。

なんだか、他人をだますより、自分をだますことのほうが簡単なように思えてきてしまった。自己防衛本能や、美への希求があまりにも強いと、自分に嘘をつき、自分をだますことが、わりと簡単にできるのではないかと。そしてその嘘が大きければ大きいほど、それに気づくことが難しくなるのではないかと。

たとえば、一時間、誰かとお茶したとして。自分の発言を「 」つきで拾い出して、分析してみたらどうだろう。この発言、嘘の割合は何パーセントみたいなかんじで。

そして誰かに指摘して欲しい。……どうやら私には、それ、ぜんぜん、当たってません、正しくありません、あなたは大嘘つきだ、と指さされたい欲望が、どこかにあるようです。

7月 10, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/08

「三人姉妹」 チェーホフ

「しかし生活は、依然として今のままでしょう。生活はやっぱりむずかしく、謎にみち、しかも幸福でしょう。千年たったところで、人間はやっぱり、「ああ、生きるのは辛い!」と、嘆息するでしょうが――同時にまた、ちょうど今と同じく、死を怖れ、死にたくないと思うでしょう」

1900年の晩秋に書き上げられたという戯曲、登場人物のひとりのセリフ。百年以上前の異国で、このようなセリフが舞台の上で吐かれていたのかと思うと、ほんとうに、人間というのはいつもどこでも同じようなことを飽きもせず、成長もせず、考え続けているのだなあ、と思う。

私にとって、生活……生きるということ……はやはりむずかしく、謎に満ちているし、しかもたぶん、幸福なのですから。

7月 8, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/07

「危険な関係」 ラクロ

「私たちが他人の中にあると思っているあの魅力というものは、じつは自分の中にあるものなのです。愛する相手をそれほどまでに美化するものは、恋なのです」

メルトイユ侯爵夫人が、好敵手でもあり同志でもあるヴァルモン子爵に書いた手紙の中の言葉。その前には、ヴァルモンが夢中になっている夫人を、「普通の女、ただあのままの女」だと思いなさい、とある。

この言葉に、映画「ダメージ」のラストが重なる。ファム・ファタルに溺れた男が、破滅し、すべてが過去のものとなった後、偶然、ファム・ファタルであった女を見かける。そして思う。普通の女だ……、と。

「危険な関係」は全編、書簡形式。手紙は「魂の肖像」なのだ、という記述に心惹かれた。

今ではメールになるのでしょうか。親しい友に宛てたメールには、ときどき生々しい感情が吐露してあり、自分でも驚くことがあります。

坂口安吾も、「愛の遊戯を明確なる人生の目的とした男女の場合を描きだしたもの」として、感心していた。「あらゆる本を手放したときにもこの原本だけはだいじに所蔵していた」そうです。

「危険な関係」は映画にもなっていて、何作かあるようだけれど、私が最近観たのは、監督がロジェ・バディム、ジャンヌ・モローとジェラール・フィリップが共演しているもの。美しかったです。

7月 7, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/05

「めぐりあう時間たち」 マイケル・カニンガム

「THE HOURS」という原題の、映画はもうたぶん10回は観ている。特別な映画。その原作、読むのは二度目。

主人公のひとり、クラリッサ(50歳前後?)がルイスという友人と会話しているときの、彼女の心情。

「クラリッサは不意に、自分の人生のありったけをルイスに見せたくなる。ルイスの足許の床の上にそれをぶちまけたくなる。物語として語ることのできない鮮明で無意味な瞬間、瞬間を。ルイスといっしょに座って、人生をふるいにかけたいと思う」

……人生をふるいにかける……

私の人生をそうしたら、ふるいの上に残るものはいったいなんだろう。幾人かのひとたち? 幾冊かの本?

ここに登場する三人のヒロインはたまらなく懐かしく、たまらなく愛しい。自分自身を人生から棚上げせずに、本人はそれを望んではいないけれど、彼女たちの気質のせいで、とても生きている、と思うから。だから生きることに激しく頼りなくなったとき、これで何度目だろう、と思いながら、映画を観る。今回はたまたま、原作を再び読んでみようと思ったわけです。

7月 5, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/07/03

「青鬼の褌を洗う女」 坂口安吾

「彼の魂は孤独だから、彼の魂は冷酷なのだ」

「彼は私をまた現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私はていのよいオモチャの一つであるにすぎない」

「すべてが、なんて退屈だろう。然し、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう」

安吾が三千代夫人をモデルに書いた小説。人間って、愛だの恋だのいっても、所詮はやはりこんなもの、いいかげんなもの、そして、自分勝手なもの。

けれど、相手が今この瞬間、ここにいることが心地よい、とか、相手に去られることが不安、という気持ちも、たしかに持ち合わせてしまっていて、だからいろいろとやっかいで、そんなことがこの小説にはあるように思えて、私は好きなのです。

7月 3, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/06/30

「マノン・レスコー」 アベ・プレボー

「恋よ! 恋よ! 汝は永久に知恵とは和解しないのだろうか?」

*作中、とある裁判官のセリフ。……わが人生では、いまのところ、まったく和解していません。

「美しく多情」で「汚れを知らぬ少女のように可憐な娼婦マノン」の世界にひたって、すこしでもそのエッセンスをいただこう、との魂胆で読んだ。あまりにも自分とは違うその姿に読後、絶望したけれど、よく考えてみれば、そもそもマノンは読書なんかしないのだった。汚れを知らぬ天性の娼婦。夢のなかで永遠に憧れることにしましょう。

この本を再読しようと思ったのは、久々に坂口安吾の「欲望について―プレヴォとラクロ―」というエッセイを読んだからで、彼はとってもマノンが好きなのだった。

「彼女には家庭とか貞操という観念がない。それを守ることが美徳であり、それを破ることが罪悪だという観念がないのである。マノンの欲するのは豪奢な陽気な日ごと日ごとで、陰鬱な生活に堪えられないだけなのである」

マノンにとって、「媚態は徳性」で、「勤労」ですらあった。そして、そこから「当然の所得」を得る、これ、マノンにとっては至極当たり前のこと。

坂口安吾は、「結婚もしないうちから、家庭だの女房の暗さに絶望し、娼婦(マノンのような)魅力を考え、なぜそれが悪徳なのか疑らねばならないようなたちだった」のだそうだ。

多くの人がほとんど疑うことなく従っている習慣や道徳に対する強烈な違和感。それを持ち続けた安吾が、マノン大好き、というのは、とっても納得できることなのでした。

そして、晩年に彼が結婚した相手、三千代さんも、どこかマノンのように、私には思えるのです。

6月 30, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/06/29

「シーシュポスの神話」 カミュ

「ドン・ファンの生き方」の章を面白く読んだ。

「明るく悦びにあふれている」ドン・ファンと「悲哀に沈む人間」を比べ、後者のようになる理由として二つのことを挙げている。一つは「無知である」から。もう一つは「期待をいだいている」から。

*うーん。たしかに予告もなく訪れるこの「悲哀」に似たモノは、これら二つが要因となっているかもしれません……。

ドン・ファンは「解放する愛」をもって、女たちに接していたのだよ、とカミュは言う。

そして、それに反するものとして、「大いなる愛」のために生きる人というのを挙げている。彼らはその「大いなる愛」のために「自分の個人としての生き方に完全に背を向けて」いて、それは「自己を富ませることになる」が、同時に、「相手を確実に貧しくさせることにもなる」。たとえば、「母親」や「情熱的な女」。彼女たちは、「かならず乾いた心の持ち主」であり、なぜなら「彼女たちの心が現実世界に背を向けているから」。たった一つの対象だけを追い求め、結果、相手を「食いつくしてしまう」。

ここには「全的な献身と自己自身の忘却」があって、ドン・ファンはこれを「感動的」だと知っているけれど、「重要なものはそこにはないということを知っている数すくないひとのひとり」でもある。ドン・ファンは、自分に「近づくひとを解放する」のと同じだけ「かれ自身を解放する」ようなやり方で愛を行った。

*たしかに、「情熱的な女」状態のときは、現実世界には生きていません。相手を食いつくしてしまって、ようやく現実世界に戻り、そして再び獲物を狙うのでしょうか……。「情熱的な女」というものは。

「相手を解放する愛」。一ミリでもいいから、感じてみたいところです。

6月 29, 2006 :::言葉の泪壺::: |

2006/06/28

「親密すぎるうちあけ話」

パトリス・ルコントの最新作。日比谷「シャンテ・シネ」にて、A嬢と鑑賞。

鑑賞中、なんどか、声をあげて笑う。私もA嬢も。鑑賞後、なんども、「ほっとする」と言う。私もA嬢も。表通りから外れた道を歩く人々が、それほど暗くなく、描かれていたからか。

妄想官能に満ちた物語。男と女が互いに直接触れ合うことはなく、なのに、匂うほど。

ヒロインのアンナ(サンドリーヌ・ボネール)が、時間を追うごとに美しくなってゆく姿に、やはり、ある種の人にとっては、自分ではない誰かに必要とされていると思えること、誰かに欲望されていると感じられること、が生きることそのものとなるのだ、と思う。

夫との間に性の悩みを抱えるヒロインが言う。「私が愛人を持てば、彼の欲望も甦るはず」。いまこの瞬間、同じセリフを口にしている女たちが、何人いることでしょう。

6月 28, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |