2009/06/29

◎それでも恋するバルセロナ◎

090620_193201 成就しない恋だけがロマンティック。

ある程度、経験年齢を重ねれば、大部分のひとが知ってしまう、この真実を、ウディ・アレンが描いた映画。

それで、「成就」って何だろう。結婚なのかな。結婚って成就なのかな。違うよな。「なにかの事柄が二人の間にあって、それで二人は逢いたいときにいつでも逢える状況にない」、そういう恋だけがロマンティック。

そういう意味なんだろうな。

……というのは、あとからくっつけた所感で、観ている間、私はひたすらバルセロナに行って、バルセロナの街を自由自在におよぎたい、という欲望に支配されていた。

自分の内側に抱えこんでいる色彩の種類は、年齢とともに増える一方で、それでも、人生のあるシーズンは身を潜めていたりするから、忘れていたりするのだけれど、映画とか本とか、人との出逢いによって、突然に姿を現す。

「それでも恋するバルセロナ」、この映画は私のなかから、「ほら、あなたこれ、もってたでしょ」と、ひとつの色彩を取り出して見せた。濃いピンク色だった。

6月 29, 2009 ◎薔薇色の映画◎ |

2009/06/25

◎歓びを歌にのせて◎

31a9vh5d23l__sl500_aa192_ DVDで観賞。予備知識ゼロで、だから期待もせずに観たけれど、心に響く映画だった、ようだ。

ようだ……、なんていやらしい表現をしてしまうのは、観終わってすぐは、「うん、よい映画でした」でおしまいだと思っていたのに、ここ数日、ふとしたひょうしに、主人公と恋人役の女性の会話が頭に浮かんで、それから、いくつかの情景につながる、そういうことがあるから、そうか、静かに心に響いていたのか、とひとごとのように感じている、というわけなのだ。

じわじわときいてるみたい。

いくつかの情景につながるきっかけとなる会話というのが、メモしなかったから正確ではないけれど、次のような感じ。

「(そのひとのことが)好きだと、どうしてわかるの?」という女性の問いに、主人公の男が答える。

「一緒にいるととても幸福だ」

そう。なんてことのないやりとりなのだが、この種のやりとりが何回か出てくるので、私はそのたびに考えていた。

ほんとうに、どうしてそのひとのことが好きだとわかるのだろうか。「どうしてそのひとのことが好きだとわかるのですか?」と聞かれたら私は何と答えるだろうか。

そして主人公の答えに、いくにんかのひとを思い浮かべて、一緒にいて幸福だっただろうか(過去バージョン)。一緒にいて幸福だろうか(現在バージョン)。なんてことを考えた。

ストライクゾーンが広いのだろうか。「幸福」というくくりでみると、わりとみんなクリアしているように思う。

そんなことをここ数日考えて、今朝、アイラインを引きながらふと思い浮かんだのは、「不在」という言葉で、そうだった、私の場合、恋愛感情の「好き」は、たしかサガンの言葉の借用だったと思うけれど、「そのひとの不在を強く感じること」なのだった、と思ったのでした。

6月 25, 2009 ◎薔薇色の映画◎ |

2009/06/22

◎愛を読むひと◎

「朗読者」は好きな本で、映画化されると知ったときは嬉しくて、さいきん、そのタイトルが「愛を読むひと」で、監督と脚本が、あの「めぐりあう時間たち」と同じと知って、ぞくりとした。

美しい映画だった。

とちゅう、正義について激しく語る学生が出てきて(主人公ではない)、そのとき強く、「ああ、この子の気持分かる、私にもあった、そういうときが」と思い、自分が年齢を重ねたことを実感した。

そうなのよ、ほんとうに、あなたの言う通りなの、でも人間って、こんなに愚かしかったり、状況に弱かったり、慣れるのが得意だったり、無感覚に身を委ねるのが好きだったりする、そういう生き物なのよ。だから、すこしだけあとからみれば「なぜあのようなことを」と絶句し、嘔吐するようなそんなことを、これからもしてゆくと思うの。それでも時折、許しがあったり、慈悲があったり、見えないほどに小さかったりするけれど愛があったりするから、すくわれるの。「こんな世界、生きる価値があるのか」と思ったときもあったけど、問題はそこにはなかった。生きる価値があるかどうかの問題ではなく、とにかく、生きなければならないのよ、このところはそのように思うの。

激しく雨が降る軽井沢で、濡れそぼる木々の葉を眺めながら、映画のなかの、あの学生にひたすら語りかける、ひたるのが大好きな女となっています。

6月 22, 2009 ◎薔薇色の映画◎ |

2009/02/18

◎エレジー◎

急に、東京に出ることになり、せっかくだから何か映画でも観よう、といつものシャンテで上映中のを調べたら「エレジー」を見つけ、その内容に「どこかで聞いたようだな」と思いつつも、それ以上調べることなく、映画を観た。

まだ2月だけど、もしかしたら2009年のベストワンかも、と思わせるほどに、私好みの映画だった。

エロティシズムが。

みごとに、みごとに、あふれるほどに、描かれていた。

あまりにも感動して、その後の予定、食事が上の空になってしまうほどだった。

090218_180401 原作が我が書棚にあったことにも感激だった。フィリップ・ロスの「ダイング・アニマル」。さらにこの本、構成を考え中の物語に、ある部分を引用しようと考えていた、いまの私の「注目本」だったのだ。

こういうつながりにはぞくぞくとする。だから原作では年の差が40歳なのに、映画では30歳となっていたことには、「え。それじゃあ、感動が半減しちゃう」なんていわないことにしましょう。

2月 18, 2009 ◎薔薇色の映画◎ |

2008/12/26

◎欲望という名の電車◎

Vivieny13 社会にうまく適応できなくて、精神を病みつつあったところに、決定的な人物と出会って、精神が崩壊してしまう女性の物語。

なんてひとことでまとめてしまってはいけないのだけれど、ある種の人々にとっては、これほどまでに「たくましく生きる」ことが困難なのだ、と、そういったことを見せつけられた映画だった。

あまりにも有名だからストーリーは知っていたし、何度も観ようとしたことはあったけれど、なぜか縁がなった。

ヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランド。もともとクレイジー色強い二人だから、その存在と芳香の強烈さは、ほとんどうんざりするほどだった。

目が冴えてしまってなかなか眠れなかった。

はっと書き留めた台詞はこれ。

死の対極は欲望  Death:The opposite of desire」

昨夜は雪が少し降って、今はびゅーびゅー吹雪いています。朝のラジオによれば最高気温マイナス三度。家にこもることにします。

12月 26, 2008 ◎薔薇色の映画◎ |

2008/11/26

◎マリリン・モンロー ラストシーン◎

081125_145901 もう、何度目になるだろう、「追悼30周年記念限定版」で出されたVHSを、涙ぐみながら観賞した。このビデオには未完の映画の映像や撮影シーン、ケネディ大統領の誕生日に「ハッピーバースデイ」を歌った、その映像などがおさめられている。

死の直前のモンローが見られるわけで、だから、彼女の「この後の運命」を知っている私としては、もう、それだけで、心の琴線に、彼女の笑顔が痛いほどに響いてくるわけだけれど、そういうのがまったくないとしても、ここに居るマリリン・モンローほど、美しい女性を私は、見たことがない。

自分のなかの女というものについて考えたいとき、何百冊のハウツー本よりも、この一本のビデオ。

モンローの視線の流れ、膝の動き……身のこなしすべてに女があふれている。そして、意外にも、彼女の包容力を、今回、私は感じ取った。

薬でぼろぼろだっただろうけれど、彼女の瞳はよどんでいなかった。私は、そこに吸い込まれるように、75分間を過ごしたのでした。

11月 26, 2008 ◎薔薇色の映画◎ |

2008/11/12

◎彼が二度愛したS◎

081110_102301 会員制秘密クラブのルール

Ⅰ名前や職業を聞いてはいけない 

Ⅱ 待ち合わせはホテル 

Ⅲ 手荒なことは禁止

Ⅳ 合言葉「Are You Free Tonight?」

「選ばれたエグゼクティブだけが集う秘密のクラブ・・・」

このコピー+「彼が二度愛したS」という扇情的なタイトル+シャーロット・ランプリングが出ている=「行くしかない!」

かなり期待して出かけたのだが、うーん。六十歳になっても、なお妖しいエロティシズムを漂わせるランプリングを観ただけで満足するとしましょう。私としてはもっともっと「秘密クラブ」が描かれていてほしかった。

この欲求不満が、日本の「秘密クラブ」へ向かう。どのような人々が集い、どんな様子なのか、知りたい(絶対にある、と信じて疑っていない)。

秘密クラブを作り出す、無視できない、人間の欲望。落葉でそろそろいっぱいになりつつある庭なんかを眺めていると、そのあまりの静かさに、秘密クラブなんてすっごく遠い世界のようにも思えてくるけれど、静かさだけでは生きられないことも、もう知ってしまっている。

11月 12, 2008 ◎薔薇色の映画◎ |

2008/10/28

◎ぜんぶ、フィデルのせい◎

News_0826ぜんぶ、フィデルのせい

フィデルは、フィデル・カストロのこと。

主人公の女の子がちょうど今の娘と同年齢ということもあって、とても興味深かった。快適なブルジョワ・ライフを送っていたのに、親がコミュニストになったことから、生活が一転、少女はそれを無条件に受け入れることなく「なぜ?」を執拗に繰り返す。

そして、この「なぜ」のなかに、大人がどきりとするような本質があって、考えさせられる。

子どもの疑問とか指摘って、たいてい的を得ているから私は嫌い。

さて。時代は1970年代。中絶許可の署名運動なんかが出てきて、そうか、これにはサガンとかボーヴォワールとか、ジャンヌ・モローとかが署名したのよねえ、なんて思うと、少女をとりまく世界がぐっと身近になる。

反抗的な少女に手を焼く両親。「ああ、その気持、わかります! ほんとうにこういう子ってめんどくさいのですよね!」

と共感してみたり、

「そうなのでしょうね、子どもからみたら、それって理不尽そのものなのでしょうね」

と、少女の心の動きに共感し、ああ、きっと私も娘からこんな風に思われているんだなあ、とこわくなったり。

恋愛ものではないけれど、1970年代がひとりの少女の目を通してとっても丁寧に描かれていて、よい気持になった100分でした。

10月 28, 2008 ◎薔薇色の映画◎ |

2008/10/03

◎セックス・アンド・ザ・シティ◎

081003_133001 SATC、ファンです。もう何年も、救われている。シューボックスセットを持っていて、気持がうちへうちへ向かってしまいそうなとき(もちろん小説つくるときのそれはオッケーなのだが)や、最近、おしゃれにうとくなってしまっているかも、と不安になったとき、手を伸ばすDVD。4人の女性たちのファッション、ぎらぎらした向上心、欲望、に感染して、なんど危機を回避したことか。

だから、映画をとても楽しみにしていた。ゆえに、ついつい有楽町での公開初日初回に行くという、とっても明るく無邪気な行動をとってしまった(しかも一人で)ことをここに告白します。

映画については、いろいろ「論じられて」いるみたいだけど、ナンセンス。

あれは論じる映画ではない。ゴージャスな夢物語としてただ楽しめばよいのだ。

私にとって、俗っぽい欲望は、人生をより生き生きとしたものにするために、とっても必要なスパイス。そんなことを再確認させてくれる映画でもありました。

10月 3, 2008 ◎薔薇色の映画◎ |

2008/04/04

「無限の網」 草間弥生

「一日ごとに早くなっていく加速度的な時間の中で、与えれた枠の内側で必死になってみてもたかが知れている、と考えることはおよそ空しく、無意味である・・・・・・(略)

 人生は真実素晴らしいとつくづく思い、体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。

そして、そのために如何なる苦労をしても悔いはない。私はそのようにこれまで生きてき、これからもそう生きてゆく」

日本の芸術家の実像にせまる、ニアイコール・シリーズで草間彌生のドキュメンタリー映画を観た。

それがあまりにおもしろく(何度笑ったことか!)、草間彌生のすっかりファンになって、かぼちゃの携帯ストラップを記念に買っただけでなく、アマゾンで自伝を買った。

熱く激しい人生に圧倒された。

以前ならば、ブラボーブラボー、芸術家はこうでなくっちゃ。

と、手放しで喜んだのだろうが、今は、もちろんそういう気持もあるものの、

「しかし、これができるということは、ある意味、ある部分、かなり鈍感にならなければ無理だろう」

とも思う。

もちろんそのアンバランスさがすべて芸術家の魅力になるのだけど。

そしてなんだかこのところ、バランスよくできてしまっている(自己評価だが)自分自身の凡庸さに、本気で落ち込んだりしている。四十をすぎると、自分自身が見えてきてしまって、でも、「もしかしたら」という幼い希望みたいなのも残っていて、すごくやっかいです。

4月 4, 2008 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2008/03/10

「いつか眠りにつく前に」

「母親は、何をしていても、子どもを傷つけてしまうもの」

昨日、新宿武蔵野館で観賞。

朝一番の回だったけれど、そして狭い劇場だったけれど、ほぼ八割が埋まっていた。

脚本を、「めぐりあう時間たち」のマイケル・カニンガムが担当していると知って期待して観に行った。

たしかに、好きな台詞が多かったけれど、全体としては私にはそれほどのインパクトがなかった。冒頭の台詞は、それを聞いた瞬間、忘れないように頭に刻みこんだが、正しいかどうかはわからない。

専業主婦でずっと家にいようとも、仕事ばりばりで家を空けていようとも、どの程度どのような関わり方を子どもに対してしようとも、母親というものは子どもを傷つけずにはいられない。

そのような意味の台詞が前後にあった。

ほんとうに、その通りなのだと思う一方で、これは誰にでも当てはまるものではないのかもしれない、とも思う。

何をしていようとも子どもを傷つける要素をたくさん持った母親と、そうでもない母親というのが、いるような気がしてならない。

(それでも毎度のことながら、このような台詞に出逢うとほっとしてしまう。逃げ場所を与えられたようで)

そして、こういうときに、「ぞうさん」の童謡と同じく、いつも「母親」なのだ。父ではなくて。嬉しいような損をしているような。

今、作品のタイトルを確認するために、ネットで調べたら、

「あなたが最期に呼ぶのは誰の名前ですか?」

という問いかけがあり、映画を思い出して、映画の主人公の場合は、アノヒトだったな。私は誰だろう、と今、あらためて考えてしまった。

朝はぼたぼたの雪が狂ったように降り、今は雨まじりの雪に変わって、季節の変化を強く意識させるお昼前に、そんなことを考えているのです。

しつこかった風邪もようやく治り、エナジーが少しずつ、身体にじわじわと広がってきています。

3月 10, 2008 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2008/02/15

「ラスト、コーション」

「今まで誰の言葉も信じてこなかったが、おまえの言葉だけは信じよう」

切実な瞳で、孤独な男にこんな台詞を言われたら。

とひとり想像して、胸を熱くしている。

平日の朝9時15分の会だったのに、八割の客席が埋まっていた。日比谷シャンテで、私は久々に映画にのめりこんだ。

濃厚な性のシーンが話題、というのもすごく楽しみだったけれど、なんたって、主演がトニー・レオン。早く観たくてうずうずしていたのだった。

そして、断言する。全部観た訳ではないから、とてもいいかげんだけれど、トニー・レオンが出演した映画のなかで、これ、だんぜん、1番です。

目だけで、女を、別世界にいざなうことができる男。

それを再再再確認。

そして、深く激しい情念の、世界。男と女の不滅の絆の世界。

ラスト、美しいヒロインが、ぎりぎりのところで選択した、「それ」に、私は激しく共鳴する。

こうでなくては。

生きていてつまんなすぎる。というか、むしろ、そうでないやりかたは、生きている、と言ってはいけないのではないか。

とまで思わせる、ほんとうに、すばらしい映画。

観たのは昨日なのに、まだぜんぜん、その世界から抜け出られないのでした。

2月 15, 2008 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/10/18

「エディット・ピアフ コンサート&ドキュメンタリー」

「いいえ、ぜんぜん いいえ、私は何も後悔していない」

話題の映画「エディット・ピアフ~愛の讃歌」、有楽座にて、土曜のお昼、一人ひっそりと観賞し、心で号泣し、ドキュメンタリーのDVDを借りた。

映画のヒットのおかげでピアフ関連の商品が充実するのは、とっても喜ばしいことだ。

ドキュメンタリーの中、インタビューの場面。

インタビュアー「恋愛経験も豊富で波乱に満ちた人生ですね。他の歌手のような穏やかな暮らしは?」

ピアフ「悪くはないけれど、そういう生き方では歌えなかったでしょうね。いつも全力投球なのよ」

インタビュアー「すべてに?」

ピアフ「そうよ」

インタビュアー「道徳に反しても?」

ピアフ「ええ、そうよ」

このときのピアフの表情、目の表情があまりに美しくて、繰り返し見た。

そして、死の直前、「奇跡のカムバック」と言われたオリンピア劇場で、「いいえ、私は何も後悔しない」を歌うピアフ・・・・・・。美しすぎる。

また、二十三歳年下の夫テオ・サラポとのデュエット「恋は何のために」を歌うピアフの、魅力的なことといったら絶句してしまうくらい。抱きしめたいくらい。

そこには私の琴線にふれてしまう、瞬間の美しい愛があった。「愛を信じたい」という気持にさせる輝きがあった。

ところで、映画ですが。

素晴らしかったです。好きなひとの伝記映画だから、前評判、事前知識ゼロで、祈るような気持で観に行ったけれど、ほんとうに、素晴らしかった!

もう一度行こうと思う。

だって、ラストが、

「NON,JE NE REGRETTE RIEN いいえ 私は何も後悔していない」。

「女神<ミューズ>のラストシーンと同じだなんて、それだけで感激。生きててよかったと思いました。

10月 18, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/09/27

「フリーダ」

「たしかにあなたの絵は個人的な絵だけれど、痛みに耐えて生き抜く、という人間に共通のものがそこにある。それがすばらしい」

フリーダ・カーロの伝記映画から。

と言っても最近観たのではなくて、なぜが突然思い出した。なぜか、なんてとぼけているけれど本当は、思い出させるような出来事があった。メモをとらなかったから全然正確ではないけれど、トロツキーがフリーダの絵をほめて、それに対してフリーダが「私の絵は個人的な絵よ」と言う。それに答えたのが冒頭の台詞。

大好きトロツキー。すべては個人的な事柄のなかから生れる。けれど表現する側も観賞する側も個人的なことを好むタイプと個人的なことを嫌がるタイプがいる。と、最近は思う。私は言うまでもなく前者で、さらにそれを突き抜けて、「個人的なことしか信じないタイプ」。

だから個人的なことを書く。あなたは自分のことばかりを書いている、と(たぶん、批判として)言われても、そうしようとしてそうしているのだから、頷くしかない。

このひと、自分のことを自分のために書いているな、と思える作者が好きで、そういう本を私は読みたい。そして自分が読みたい本を書かなくてどうするのさ、と思う。

なんだかとても強気では(三分後にはどうなっているかわからないけれど)。

何で読んだのか忘れたけれど(たぶん新聞)、美肌に執着する女性たちのことが話題になっていて、五十歳だか六十歳だかの女性が「美肌でなければ、生きていてもつまらない」的なことを言っていて、ひとそれぞれ、を痛感しました。同時に、美肌であれば生きていて面白いのならば、それはそれで羨ましいなあ、とも思いました。

9月 27, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/09/19

「ルー・サロメ」

「君は何をしているの?」

「私は……生きたいわ」

「ルー・サロメ 善悪の彼岸」。監督がリリアーナ・カヴァーニ、そう、「愛の嵐」を撮った人。この台詞はパウル・レーとの出逢いの時に、互いの職業などを聞き合う場面。ルー・サロメという人を象徴している台詞のように思えて、心に響いた。

「ルー・サロメ 愛と生涯」の訳者土岐恒二氏は次のようにルー・サロメを言う。

「たとえばニーチェが絶望的に愛したボーイッシュな才媛であり、あるいは、未熟な詩人リルケを愛と詩の体験へ導き、……略……晩年のフロイトのよき協力者として神秘に包まれた巫女……要するに近代ヨーロッパの最高の知性の周辺をいろどるこわくの女」

映画は面白かった。久々に濃厚なワインを飲んだかのように酔った。

それにしても、「あなたは? 何をしている人?」と聞かれて、「私は、生きたいわ」と言った時(言わないけど)、それを同じ世界観で受け取ってくれる人ってどのくらいいるのだろう、と考えた。

初めての人は想像しにくいから、周囲の知人たちに次のように聞かれたと仮定してみる。

「最近は何をしているの?(どんなテーマで書いているのか、それとも書いていないのかとかそういう意味で聞いているとする)」

そして私は答える。「私は……、生きたい」

その時の相手の表情、対応を想像したら楽しくなってしばし熱中してしまった。意外と、私の周囲に、(私から去らずに)まだいてくれる人たちは、楽しい反応をしてくれた(想像の中でだけど)。

最後に、ひどく共感した台詞を。

知り合いの女性から「私たちには女性と社会への責任があるわ」と言われて、

「“私たち”? あなたが主張する“私たち”って何なの? 私は私のことしか知らない」

大好きだな、と思いました。

9月 19, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/09/03

「ウインブルドン」

「自分が何者なのか、決意して」

ようやく「その季節」となったというのに冷めてしまっているテニス熱を取り戻そうとDVDで観賞。

ベテランのテニスプレイヤーが若手の天才的プレイヤー(キルスティン・ダンストが不思議というより不可解な、魅力を振りまいている)と恋に落ちるというお話で楽しかった。

冒頭のセリフ、英語の表現をチェックしないまま返却してしまったから、字幕の言葉なのだけれど、思わず書きとめた。

「あなたは何者なの?」「自分は何者なのか」

とは違う。

「自分が何者なのか」→「決意する」という、その行為に胸が突かれた。

そしてこの胸が突かれたという状態は、カフカの言葉を思い出させた。

「人間は自分の中に破壊しがたいものが存在するということを継続的に信じない限り生きることはできない」

自分の中の「破壊しがたいもの」の存在を確認したなら、もしかしたらそれが辛い作業とはなっても、確認したなら、そこに生きることへのこたえがあるのではないか。

いつもこんなこと言ってそうだけれど、仕方がない。一生考えながら行くのだろう、と思うのです。

軽井沢。今日は晴れていて暖かい。でも、ここのところ数日濃霧で寒かった。季節が、目に見える形で、肌に感じる形で、移り変わっています。

9月 3, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2007/03/22

「キンキーブーツ」

「人が何を成し得たかは他の人の心に何を残したかで測るべきよ」

昨夜DVDで観賞。たしか、一昨年の夏あたりに日比谷のシャンテ・シネで上映された。観に行こうと思っていてすっかり忘れていた。とても面白い映画だった(私は靴フェチなので、それもあって、たまらなかった)。

赤いエナメルのブーツが主役級の存在感で、たびたび姿をちらつかせ、欲してたまらなくなってしまい、困った。けれど、映画のほど芸術的ではないけれど、私は既にブラジルの赤いブーツを持っていて、このおかげで、今日ブーツを探し回りに行かずに済んでいる。

キンキー、というのは、ちょっと変わってる、変態、というような意味。ああ。タイトルも、とっても好きだ。

冒頭のセリフは、DVDを観ながらとしては久々に、書き留めたセリフ。

「そうよー、その通りよー」と感動して書き写したのではない。「いいセリフだな」という想いがまずあって、あとは、何かが引っかかったからノートに書いた。

一夜明けて、その「何か」がわかった。良いセリフだろうに、素直に感動できなかったのは、このところ、この種の考え方は、「ラクすぎるのでは」と思うからだ。もちろん、すごくしんどいときは、何でもいいからラクになりたいから、こういうセリフが必要となる。けれど、それ以外のときには、むしろ邪魔なのでは。

だから、このセリフに、どのように対応するかで、現在の自分自身の状態が読めるという、なにか「踏み絵」のようなセリフなのだな、と思うのでした。

3月 22, 2007 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/09/08

「アイリス」

「あくなき幸せの追求、その鍵はイマジネーションの力です」

アイリス・マードックの言葉。哲学者であり作家である彼女の生涯を描いた映画。晩年アルツハイマーにかかってしまうのだが、言葉を生み出すことが、生きることそのものでもある彼女が言葉を失ってしまう過程は、観続けるのがやっとのほど、辛いものだった。

夫は彼女を崇拝し、彼女を、彼なりに熱愛している大学教授。けれど、彼は彼女を晩年になってもなお、自分だけのものにできないことと、彼女のなかに自分がけっして立ち入ることのできない「秘密の」領域があることを知っている。

だから、妻がアルツハイマーにかかり、自分なしでは生きることができなくなったとき、ある種の、愛の手ごたえを感じる。

この映画は「愛の映画」として評価されているけれど、そして確かにそうなのだろうけれど、私は男女の、周囲からは「愛」としか表現されないものの中にも、なんとも複雑で混沌としたエゴイズムがあるのだと、ひしひしと感じて、背筋がぞっとする想いだった。夜観たのですが、暗い気分で、それは翌朝までひきずってしまったのでした。

9月 8, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/09/04

「デュラス・愛の最終章」

「私を愛してる? あなたが愛しているのは私じゃなく、作家の私よ、認めたらどう?」

DVDで鑑賞。

66歳のとき、38歳年下のヤン・アンドレアと出逢ったデュラスの、最期の愛人と過ごした最期の16年間。

主演がジャンヌ・モロー。孤独でいれば、愛人に去られる恐怖もないけれど、愛人と過ごす喜びもない。

そのあたりのことで揺れながら複雑にヤンを求めヤンを愛するデュラスの姿に、なんども目の奥が熱くなり、ときどき、涙が出た。

デュラスが「世界一美しいシャンソンよ」と言ってかける曲が「カプリ セ フィニ」。この場面はもっとも美しい。そして、ドライブしながらハミングする「ばら色の人生」。

私はデュラスの作品にあまり共鳴しないけれど、官能に自由なひとにとっては、38の歳の差も問題ではないのだ、と思えるほどに、久しぶりに直球ど真ん中に命中したような、そんな映画でした。

9月 4, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/08/14

「アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶」

「逃げ去るイメージ」

“20世紀最大の写真家”ともいわれるブレッソンの写真集のタイトル。英語版ではこれが、「決定的瞬間」となっている。「逃げ去るイメージ」のほうが、すとんと胸におちるのに。

一時間ちょっとのドキュメンタリーを恵比寿ガーデンプレイスの写真美術館で鑑賞。ブレッソンの言葉で、胸に響いたのがあるのだが、メモしなかったので正確ではない。

でも、次のような内容のことだった。「写真をとるために生きるのではなく、自分の人生を生きる、そして写真を撮る」。ようするに、「人生の目的が、写真を撮ることにあるのではない」といったことを、私は彼の言葉から感じた。

アーサー・ミラーも出演し、マリリン・モンローの写真を見ながら、「ここには彼女の知性がある」と言っていた。はじめてみる、モンローの写真だった。あまりにも美しくて、ミラーが言うように、知性ある美しいひと、がそこにいて、目を奪われた。

それから、エディット・ピアフのポートレートも。華やかではないけれど、彼女がたくさんの襞をかかえた女性であることをつきつけたような一枚だった。

逃げ去るイメージ。ここ一週間のうち、二回も、自分のなかで永遠にとじこめておきたい一瞬を経験した。逃げ去らないうちに、焼き付けたい、と思いました。

8月 14, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/08/07

「8miles」

DVDで鑑賞。ヒップホップ界のスーパースター、エミネムの半自伝的映画。

ヒップホップ、ラップ、エミネム……、すべてにちんぷんかんぷんな私が、なぜか、とても楽しめた一本。

この主演男優は誰? まなざしの力がすごすぎる。

調べてみれば、エミネム本人。納得する。スターへの夢を追いかけ、極貧暮らしを続けるエミネムが、途中、友人に言うセリフ。「夢はいつ諦めればいいのか?」(←正確ではありません)に、ぐっとくる。

また、仕事に向かう途中、わずかな時間でもメモ片手に、創作に熱中する姿にも。以前私も、常に創作途中の原稿を持ち歩き、仕事の合間のわずかな時間に、手を入れていました。

自分と、自分ではないすべてと、「闘う」という姿勢。これに胸熱くした一夜でした。

8月 7, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/08/05

「美しい人」

文化村のル・シネマで鑑賞。ロドリゴ・ガルシア監督の最新作。

9人の女性が登場する9の物語。第2話にもっとも共鳴した。

かつては恋人同士だったふたりが夜のスーパーマーケットで再会する。ともに心が揺れ動くが、お互いに別の相手と結婚しているという状況。

過去の話になったり、現在の話になったり。

まだ君のことを想っている、という男に女が言うセリフ、いくつか。

「傷ついても怒ってもいない。悲しかっただけ」

「私たち、何なの? まるで恋人同士みたいだわ。あなたといると、私の人生が虚しく思える」

「あなたの存在が私を飲み込んでしまうの」

強烈な存在だったのでしょう。けれど、一緒に人生を生きることはできなかったのでしょう。けれど、その存在を目の当たりにすると、感じると、その強烈さに、現在の生活が急激に色褪せて見えるのでしょう。そういう相手、そのような瞬間、とてもリアルに甦った一遍でした。

8月 5, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/07/20

「ガッジョ・ディーロ」

知友に勧められて鑑賞。監督はトニー・ガトリフ。

ルーマニアのジプシーの物語。ヒロインのローナ・ハートナーの魅力がいっぱいに溢れていた。ほんとうに、なんて魅力的な女性なのか。そして、性愛のシーンはほんの数分(1分くらい?)、そして自然の中、のびのびと、という状況なのに、なぜあんなにエロティックだったのか……。

この映画に魅せられたのは、胸に染み入る音楽と合わせて、「このように生きられたらなあ」の理想の一つがくっきりとあったからだろう。

感情を感情として表現し、「今日」という日を生きるという、これ、とっても単純なのに、どうしてこんなに難しいのでしょう。

7月 20, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |

2006/06/28

「親密すぎるうちあけ話」

パトリス・ルコントの最新作。日比谷「シャンテ・シネ」にて、A嬢と鑑賞。

鑑賞中、なんどか、声をあげて笑う。私もA嬢も。鑑賞後、なんども、「ほっとする」と言う。私もA嬢も。表通りから外れた道を歩く人々が、それほど暗くなく、描かれていたからか。

妄想官能に満ちた物語。男と女が互いに直接触れ合うことはなく、なのに、匂うほど。

ヒロインのアンナ(サンドリーヌ・ボネール)が、時間を追うごとに美しくなってゆく姿に、やはり、ある種の人にとっては、自分ではない誰かに必要とされていると思えること、誰かに欲望されていると感じられること、が生きることそのものとなるのだ、と思う。

夫との間に性の悩みを抱えるヒロインが言う。「私が愛人を持てば、彼の欲望も甦るはず」。いまこの瞬間、同じセリフを口にしている女たちが、何人いることでしょう。

6月 28, 2006 ◎薔薇色の映画◎, :::言葉の泪壺::: |