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2008/04/24

「啼く鳥の」 大庭みな子

「彼女は日常生活でもし自分が感ずるままのことを言ったり、したりしたら、それは攻撃的な、怒りと憤懣と悲しみに充ちた露悪的なものになり、他人を不愉快にし、その結果、みんなに危険な人間だと思われるに違いないと思ったので、嘘をつきつづけるしかなかったのだ。

嘘とはつまりこんなことだ。いやなことでも「はい」とすなおに言ったり、笑いたくないときでも笑ったり、つまらないことでも一生懸命やって、更に一生懸命やり続けることで、自分の頭を麻痺させてしまうというようなことである。

だがもちろんそんなことはとり立てていうほどのことはなく、見まわせば彼女の周囲の人びとは多かれ少なかれそれに似たようなことをしている感じだったので、しまいにはこの狸と狐の化かし合いのような生活というものが、やはりそれなりに何らかの意味があるのであろうと考えないわけにはいかなかった

以前にも紹介したことのある本から。

http://anais.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/index.html

頻繁に思い出す箇所で、ちょうど昨夜も寝る前に、頭にあった。そこに親友から携帯電話にメールがあり、大庭みな子さんを読んでいます・・・とあったので驚いた。

ところで、今回は以前引用しなかった、ラストの部分に反応している。

「何らかの意味」があるのだろう、と私も、考えないわけにはいかない状況になっているのではないか。

そんなふうに思い、かなり衝撃を受けるという形での反応。

とても白色に近い灰色の空から、雨がぼたぼたと落ちてきている、閉ざされ感ひじょうに高い、落ちつく朝です。

4月 24, 2008 |

2008/04/07

「ポトマック」 ジャン・コクトー

「あり得たかもしれないもの、省略されたものの、神秘な美しい重みを君は知っているか?

余白と行間、アルジェモーヌ、そこには犠牲の蜜が流れている」

何年も前に、朝日新聞のコラムで知って、当時発行していたメールマガジンで紹介したことがあった。

このところ、このフレーズが頭をぐるぐる回ることが多く、「ポトマック」を読んだ。けっして感動したとか、特別な小説だ、とか言えない一冊だけれど、やはり、何箇所かラインを引かねばならない箇所があるのは、コクトーだからだろう。

たとえば、

「君のなかで世間が非難するところのものを、十分に手を入れて育てあげたまえ、それがほかならぬ君なのだから」

という一文。

これなどは、今日はとても胸をつかれた。

コクトーが言うようなそれを、十分に手を入れて育てあげたのは、二十代の半ばからの十年間くらい。せっせと育てたように思う。

そしてそれ以後は、違う時代がやってきて、世間に非難されることが少ないような言動をとるようになってきて、ときどき不安になるから、大丈夫、外側と内側は別なのだから、内側の自分自身を大切に育て続ければ、自分は枯れないのだと、必死に言い聞かせながらきたけれど、それでは全然大丈夫ではないことに、ここのところ気づき始めている。

人間はそんなに弱くはない、とも思っているけれど、そんなに強くないのも事実なのだ。少しずつ、外側に内側が浸食されている。

雨の音が懐かしい。ああ、春になりつつあるのだなあ、と思える夜です。

4月 7, 2008 |

2008/04/04

「無限の網」 草間弥生

「一日ごとに早くなっていく加速度的な時間の中で、与えれた枠の内側で必死になってみてもたかが知れている、と考えることはおよそ空しく、無意味である・・・・・・(略)

 人生は真実素晴らしいとつくづく思い、体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。

そして、そのために如何なる苦労をしても悔いはない。私はそのようにこれまで生きてき、これからもそう生きてゆく」

日本の芸術家の実像にせまる、ニアイコール・シリーズで草間彌生のドキュメンタリー映画を観た。

それがあまりにおもしろく(何度笑ったことか!)、草間彌生のすっかりファンになって、かぼちゃの携帯ストラップを記念に買っただけでなく、アマゾンで自伝を買った。

熱く激しい人生に圧倒された。

以前ならば、ブラボーブラボー、芸術家はこうでなくっちゃ。

と、手放しで喜んだのだろうが、今は、もちろんそういう気持もあるものの、

「しかし、これができるということは、ある意味、ある部分、かなり鈍感にならなければ無理だろう」

とも思う。

もちろんそのアンバランスさがすべて芸術家の魅力になるのだけど。

そしてなんだかこのところ、バランスよくできてしまっている(自己評価だが)自分自身の凡庸さに、本気で落ち込んだりしている。四十をすぎると、自分自身が見えてきてしまって、でも、「もしかしたら」という幼い希望みたいなのも残っていて、すごくやっかいです。

4月 4, 2008 |

「命の器」 宮本輝

「私を溺愛し、どんな人間でもいい、ただ大きくなって欲しいと念じつづけてくれた人がこの世にあったということを、筆舌に尽くしがたい感謝の念で思い起こすのである」

胸をつかれた。

随分昔のこのエッセイ集を読み返すのは、もう三度四度目くらいなのに、自分のなかの迷いをなんとかしようと本棚から取り出して、読み始めて、今回はこの部分にしみじみと感じ入ってしまった。

本来そうでありたいし、そうなのだ。

なのに、私はなんと余計なものを、求めていることだろう。

雪がふったり、ぽかぽかしたり、気まぐれな軽井沢に翻弄された春休みが終わりました。

4月 4, 2008 |