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2007/09/28

「イエーツ詩集」

「しかしひとりの男は、あなたのなかの

尋ね求める魂そのものを愛した

そしてその変化する表情の奥にある

悲しみを愛した」

詩のタイトルは「あなたが年をとって」

「多くの男たちがあなたの明るい愛嬌を愛した そして真偽はともあれ熱情をもってあなたの美しさを褒めたたえた」

のあとにくるのが冒頭の四行。

たっぷり十分くらい、うっとりとした。私のあこがれが、美しい言葉とともに、あったから。

この地で、なるべく心地よく生活してゆくために必要な「労働」に従事して、腕がしびれているけれど、イエーツにすくわれました。

9月 28, 2007 |

2007/09/27

「フリーダ」

「たしかにあなたの絵は個人的な絵だけれど、痛みに耐えて生き抜く、という人間に共通のものがそこにある。それがすばらしい」

フリーダ・カーロの伝記映画から。

と言っても最近観たのではなくて、なぜが突然思い出した。なぜか、なんてとぼけているけれど本当は、思い出させるような出来事があった。メモをとらなかったから全然正確ではないけれど、トロツキーがフリーダの絵をほめて、それに対してフリーダが「私の絵は個人的な絵よ」と言う。それに答えたのが冒頭の台詞。

大好きトロツキー。すべては個人的な事柄のなかから生れる。けれど表現する側も観賞する側も個人的なことを好むタイプと個人的なことを嫌がるタイプがいる。と、最近は思う。私は言うまでもなく前者で、さらにそれを突き抜けて、「個人的なことしか信じないタイプ」。

だから個人的なことを書く。あなたは自分のことばかりを書いている、と(たぶん、批判として)言われても、そうしようとしてそうしているのだから、頷くしかない。

このひと、自分のことを自分のために書いているな、と思える作者が好きで、そういう本を私は読みたい。そして自分が読みたい本を書かなくてどうするのさ、と思う。

なんだかとても強気では(三分後にはどうなっているかわからないけれど)。

何で読んだのか忘れたけれど(たぶん新聞)、美肌に執着する女性たちのことが話題になっていて、五十歳だか六十歳だかの女性が「美肌でなければ、生きていてもつまらない」的なことを言っていて、ひとそれぞれ、を痛感しました。同時に、美肌であれば生きていて面白いのならば、それはそれで羨ましいなあ、とも思いました。

9月 27, 2007 |

2007/09/26

「愛のメタモルフォーズ」(愛 ドニ・ド・ルージュモン)

「愛の病に冒されている者は、健康になったところで何の喜びも見つけられないものなのである」

二度目ではあるけれど、ロマン・ポランスキーの『赤い航路』をDVDで観賞。情欲エナジーを豊富に持った男女が出逢うと、どうなるのかが、その始まりから終焉まで、しつこいほどに描かれている。

この映画で私はつくづく、自分の「ちょっと枯れたかんじの中年男性好み」を知ったけれど、そんなことはどうでもよくて、映画を観ながら、ずっと、ルージュモンの言葉が離れなかった。

健康ならいいってわけじゃないのよ、このところ健康への希求が年齢のせいか高まっているけれども、生への濃度と健康は比例しない。ぜったい、そう。

なぜか力んで叫びたい夜。日がほんとうに短くなりました。もう外は真っ暗です。

9月 26, 2007 |

2007/09/25

「風紋」 大庭みな子

「利雄が浮気をすれば刺し殺す。しかし、みな子には自由を与えよ」

宝物の一冊となるであろう本。出版されたことを知った時から、そう思っていた。読んで、それが外れていなかったことがとても嬉しい。

大庭みな子が亡くなった時、サガンの訃報を知った時と同じ位の衝撃があった。小学校行事の関係で集められた古新聞の中に、「追悼・大庭みな子」という記事を見つけ、こっそり抜き取った時、自分はそんなにこのひとが好きだったのか、と思ったものだった。

大庭みな子への興味の大部分は、私の場合、夫であるひと(利雄さん)との関係性に向かう。「風紋」はその興味を充分に満たしてくれた。

冒頭の一文は「おかしなおかしな夫婦の話」というタイトルの大庭利雄さんのエッセイから。妻を亡くした悲しみ(「半身不随」ならぬ「半身不在」と表現している)の中で綴られたエッセイだ。

妻みな子の言い分は「貴方は女好きで博愛主義者だから他の女に手を出したら離れられなくなる。私は冷たくて情を移すようなことはないのだから一人の男に捉われてしまう心配はないの」。

だから、「「利雄が浮気をすれば刺し殺す。しかし、みな子には自由を与えよ」という不平等条約にサインさせられる結果となった。」のだそうだ。

どこかで聞いた話です。私の親しい友人は、きっとこれを読んだら笑うでしょう。それにしてもすくわれる。何度も読み返して感激している。普通のとは形が違うけれど、愛としか呼べないものが溢れていて、それがあまりにも私の急所をつくものだから、泣けてくるのです。

9月 25, 2007 |

2007/09/21

「個人のたたかい」 茨木のり子

「すぐれた芸術家は、若いころの処女作のなかに、一生かかって成しとげる仕事の核を、密度高く内包しているものだといわれますが、この詩はそのことを痛感させてくれます」

「金子光晴の詩と真実」というサブタイトルの本。いっきに読んでしまった。それは金子光晴そのひと自身の魅力もあったが、それを描き出した茨木のり子の表現力が素晴らしかったから。

冒頭の文は、とても納得できたから、ラインを引いた。というのも、よく「処女作を超えるものは書けない」って言われるけれど、それはどうなのかなあっ、と常々疑問に思っていたからで、茨木のり子が表現したような、そういう意味ならば、確かにその通り、と頷ける。大庭みな子の「三匹の蟹」をすぐに思い出した。

それにしても。……また引用します。

「この期間、ぜんぜん文学書は読まず、詩も発表していません。ただ自分のなぐさみのためにだけ、手帳に詩を書きつけたりしていました。けれども、この期間、金子光晴の目はまばたきを忘れたミミズクの目のように、大きく開かれ、物の本質につきささる詩人の眼は、さまざまなものを視ていたのです(略) 「詩なんか捨てたっていい。」しんそこそう思っていた、詩作の空白時代の五年間が、しかし金子光晴の心の柱を太くした、いちばんだいじな時期にあたっていたのでした。」

平易な言葉しか使っていないのに、なんて深いのでしょう。

久々に言葉の選び方、表現というものに、感動した本でした。

残暑が厳しいと言われるこのごろ。軽井沢も昨日とそれから今日も27度まで上がるようです。けれで、もう空気が違います。家の中で静かにしていれば、暑いという感想を抱かないでいられるほどに、秋です。

9月 21, 2007 |

2007/09/19

「ルー・サロメ」

「君は何をしているの?」

「私は……生きたいわ」

「ルー・サロメ 善悪の彼岸」。監督がリリアーナ・カヴァーニ、そう、「愛の嵐」を撮った人。この台詞はパウル・レーとの出逢いの時に、互いの職業などを聞き合う場面。ルー・サロメという人を象徴している台詞のように思えて、心に響いた。

「ルー・サロメ 愛と生涯」の訳者土岐恒二氏は次のようにルー・サロメを言う。

「たとえばニーチェが絶望的に愛したボーイッシュな才媛であり、あるいは、未熟な詩人リルケを愛と詩の体験へ導き、……略……晩年のフロイトのよき協力者として神秘に包まれた巫女……要するに近代ヨーロッパの最高の知性の周辺をいろどるこわくの女」

映画は面白かった。久々に濃厚なワインを飲んだかのように酔った。

それにしても、「あなたは? 何をしている人?」と聞かれて、「私は、生きたいわ」と言った時(言わないけど)、それを同じ世界観で受け取ってくれる人ってどのくらいいるのだろう、と考えた。

初めての人は想像しにくいから、周囲の知人たちに次のように聞かれたと仮定してみる。

「最近は何をしているの?(どんなテーマで書いているのか、それとも書いていないのかとかそういう意味で聞いているとする)」

そして私は答える。「私は……、生きたい」

その時の相手の表情、対応を想像したら楽しくなってしばし熱中してしまった。意外と、私の周囲に、(私から去らずに)まだいてくれる人たちは、楽しい反応をしてくれた(想像の中でだけど)。

最後に、ひどく共感した台詞を。

知り合いの女性から「私たちには女性と社会への責任があるわ」と言われて、

「“私たち”? あなたが主張する“私たち”って何なの? 私は私のことしか知らない」

大好きだな、と思いました。

9月 19, 2007 |

2007/09/18

「日記」 高橋たか子

「あのいくらかたどたどしい筆致で表現されたもののほうこそ、生身の私の人間観がこもっている……(略)……三度目の原稿が受理されて、それが本になった後、私は、あの二つの原稿――(略)を、破棄して燃やしてしまったのだった。そのとき、胸を裂くような、内面の、肉の音がした。あのまま活字になるべきだった! 処女作が、永久に失われてしまったのだ。若い私の、いのちがけで書きつづけたものが――。」

心の調子がどうも弱い状態で、自分がまったく無価値な人間なのだと(かもしれないけど)思い込んでどうにもならない時は胸が苦しい。どきどきしながら本棚の前にたたずんで何冊かの本を抜き取り、そのまま座り込んで、乱暴な読書をする。

そんな状況で、今回は、この部分に、惹かれた。

熱があって、それをとてもよいと思った。好きだと思った。

それにしても、最後に「(なぜそんな残念なことになったか。いうまでもなく、あの最初の時点における日本の文学の狭さのせいだった)」と言い切れる作家は凄い。私の場合は最初に書いたものは、そりゃあ勢いと熱はあるものの、とてもじゃないけど公表できない。今よりも、もっともっとレベルが低くて、という意味で。

昨日新宿の紀伊国屋書店を出たところで、若い男の子に声をかけられた。「熱心に本を眺めていらして、好きな作家の所にいたのですか? ちょっとでいいのでお茶してください!」

私は自分の新刊「女神ミューズ」が平積みになっていて、「軽井沢夫人」も置いてあるなあ、などと、ぼんやりたたずんでいたので、それを見られていたかと思うと大変恥ずかしかった。なので「声をかけてくれてありがとう。でももう行きますっ」と挙動不審女をしてしまったのでした。

9月 18, 2007 |

2007/09/13

「愛という名の孤独」 フランソワーズ・サガン

「不幸からは人間は何も学びません、不幸は人に大打撃を与えるだけです。人を瀬戸際に立たせるだけです。私自身が不幸な時、いつもそのことを恥に思っていました。不幸であることは、品位を落とした状態なのです。<……>試練が人を養うという考えは、まったくの嘘。幸せな時のほうが学ぶことがずっと多いのです」

いかにもサガン的な意見に、今回はラインを濃く引いた。不幸であることは品位を落とした状態。これ、たしかに思い当たるところが多い。

けれど、自分は幸福だとしている人たちが品があるかといえば、周囲を見渡して、そうでもなく、もともと品というものは、備わっている人とそうでない人がいる、というのが今の私の実感だ。

そしてこのところは「品」と「情」の関係に注目している。自分の周囲の人しかリサーチできないけれど、勝手に判断すれば、「品のある人は情があり、情のある人は品がある」。

そしてさらに、「品」と「情」を備えている人には「生きるセンス」というものがある。お金を持っているか持っていないかは重要ではない。生きるセンスとは、やはり「自分なり」の幸福を追い求めることにつながる。

だから不幸の中に価値を見出したりしないのだ。

とサガンにつなげたいところです。

9月 13, 2007 |

2007/09/12

「『外科室』の解説」 川村二郎

「だが、たとえ長い時間をかけて成長したり衰弱したりするにしても、少なくとも愛が発生するのは瞬間である。分別も常識もたちどころに無力化する、有無をいわせぬ暴力を孕んだ瞬間である。その瞬間を知らぬ人は愛を知らぬというにすぎない。鏡花は『外科室』でただその瞬間だけを定着しようとしたのである」

泉鏡花の『外科室』を、久しぶりに読んだ。いつものようにしびれて、それからいつもは読まない解説を読んだ。そして、好きな文章を見つけた。

しばし、「瞬間」の思い出にふける。

好きな小説の解説で感動した経験は記憶のなかでは皆無だけれど、この解説は、私に、私が「瞬間」を熱愛していること、だからこそ『外科室』を溺愛するのだということを提示して見せてくれた。

まったく。

日常のなかでは、それこそ「瞬間」の積み重ねが日常なのに、「瞬間」を忘れてしまう。それは余裕がないからだ。余裕とは時間ではなく、心と頭のなかの自由な空間のことだ。いったい何にそんなに束縛されているのか、と笑いたくなる。そして自分を束縛し、余裕をなくしている要因をひとつひとつを拾い上げてみれば、ほんとうに実のところは重要ではないものばかりで、それに気づいた瞬間だけは、ふっと軽くなれたように思う。

こういうの、たまには持続すればいいのに、とふくれたくなる午後。雨も上がり、いきなりあらわれたさわやかな秋空を仕事場の窓から眺め、ため息などついてみたくなるのでした。

9月 12, 2007 |

「言葉の箱」 辻邦生

「結局、小説の魅力は、そうした作家の一人ひとりが、自分の心のなかで、これぞ生命のシンボルなんだ、これに触れて初めて人間が単調な世界から抜け出ることができるんだという、そういうものに満ちた別世界を描くことだと言っていいかと思います」

「言葉の箱」は五年くらい前に、私を大きくすくってくれた大切な本。

今朝、心に響いた言葉を乱雑に書きとめたノートを整理していて、今、今度は大きくなぐさめられた。

軽井沢は今朝も雨。

台風で、我家に大きな被害はなかったけれど、浄化槽の関係で水が流せなくなったのと、停電が二日続いたことは、やはり非日常。そしてあたりまえだけれど不便。自分がいかに逆境に弱い人間なのか、もう分かっているというのに、痛感してしまった数日間でした。

9月 12, 2007 |

2007/09/06

「ひとを<嫌う>ということ」 中島義道

「じつは「嫌い」の原因を探ることには絶大なプラスの効果があるからです。自分の勝手さ、自分の理不尽さ、自分の盲目さが見えるようになる。そのために、ひとを嫌うことをやめることはできませんが(そして、その必要もないのですが)、自己批判的に人生を見られるようになる。他人から嫌われても、冷静にその原因を考えれば、たいていの場合許すことができるようになる。こうして、ほんとうの意味で他人に寛大になれる。

 嫌うことをやめるのではなく、嫌われていることに眼を覆い耳をふさぐのではなく、あくまでも繊細にその原因を追及し、わからなければ「生理的嫌悪感」という行き止まりで納得する。こうした態度にもとづいた人生は、不幸かもしれないけれど、真実を恐れつづけて幸福に浸っている人生よりずっと充実しているように思われる。強く豊かな人生であるように思われるのですが、いかがでしょうか」

ここ一週間、私をすくってくれた本。眠る前には必ず開いた。読むのは三度目。(じつは一週間前には『私が嫌いな10の人びと』で、心のもやもやをすっきりさせていた。「いい人」の鈍感さが我慢できない。という帯のコピーを私は熱愛している)。

一度でいいから「軽井沢夫人」と対談して欲しいと思う。私ではだめ。「軽井沢夫人」でないと。

新しく本を出すと、それにまつわる儀式がすこしあって、それに反応する、あるいは無反応の人々とのつきあいがうまくできない。いつもそうだけれど、いつも疲れる。

中島義道さん、ありがとうございます。ジャン・マレーは「真実の中にしか幸福は見出せない。自分をさらけ出すこと、それが他の人の助けになりうるのだ」と言いましたが、あなたの書いた「血がしたたるほどの真実」は、こんなに私をすくっています。

台風で、外はひどい状態です。ゴア元副大統領の「不都合な真実」を観てから、初めてのひどい台風で、私はとても怖い。軽井沢に移住して、自然をこんなに怖いと感じたのは初めてです。どうか、ひどい被害なく、通り過ぎてくれますように。

9月 6, 2007 |

2007/09/04

「セルジュ・ルタンス―――夢幻の旅の記録」 セルジュ・ルタンス

「『美』というものは希少さを望んでいるのです」

「フランスの知性、哲人」と称されるアーティスト。資生堂のイメージクリエイターとしても知られるらしいけれど、私は知らなかった。でも、写真集の、このカヴァの美しさにうたれてしまった。

Photo

冒頭の以外の言葉もいい。

たとえば、「赤と黒」について。

「私がいちばん好きな二色。私の赤は強迫観念、黒は私に混じり合う」

セルジュ・ルタンスと好きな色が一緒。

私の場合は・・・・・・。

「赤と黒」は私がいちばん好きな二色です。私の赤は切り札、黒は私を隠してくれる。

と、言わせてください。

9月 4, 2007 |

2007/09/03

「プレヴェール詩集」 ジャック・プレヴェール(小笠原豊樹訳)

「ファスナーが稲妻のようにきみの腰を滑り

きみの恋する肉体の幸福な嵐が

くらやみのなかで 

爆発的に始まった

きみの服は蝋引きの床に落ちるとき

オレンジの皮が絨毯の上に落ちるほどの音も立てなかったが

ぼくらの足に踏まれて 

小さな阿古屋貝のボタンは種のように鳴った

サンギーヌ・オレンジ 

きれいなくだもの 

きみの乳房の突端は 

ぼくのてのひらに 

新しい運命線を引いた 

サンギーヌ 

きれいなくだもの 

夜の太陽。」

Kさんからいただいた詩集、「サンギーヌ」というタイトルの詩があまりにも熱くて美しく、以前に感動したプレヴェールの詩を過去のノートの中に探した。みつからなくて、さきほどようやく探し当てた。訳は誰の手によるものなのかわからない。親友が訳したものか、あるいは翻訳を仕事としている知人か。

タイトルは「アリカンテ」。

テーブルのうえにオレンジが一つ

絨毯の上にきみの服

そしてぼくのベッドのなかにきみがいる

今このときの愛しい贈り物

夜の涼気

ぼくの生命の火照り

地球の温暖化をとめることがきなかったとしても、まだ生きたかった人を殺す人間がいて、それをどうすることもできないとしても、私はプレヴェールのこういう世界を愛する。

プレヴェールはけれど恋愛詩よりもむしろ、社会に対する彼自身の目を持っていて、それを表現したことで知られている。そう思うと、やはり、といつもの結論に達して安心する(毎度)。

愛しい女性と共にいる風景をこのように美しく熱く描写するその感性は社会に向っても美しく熱く伸びてゆくのだと。

久々に、何度目かの「天井桟敷の人々」(プレヴェール脚本)が見たくなりDVDを借りることにしました。買ってしまうかもしれません。先日「ドリームガールズ」買ったばかりなのに。

9月 3, 2007 |

「ウインブルドン」

「自分が何者なのか、決意して」

ようやく「その季節」となったというのに冷めてしまっているテニス熱を取り戻そうとDVDで観賞。

ベテランのテニスプレイヤーが若手の天才的プレイヤー(キルスティン・ダンストが不思議というより不可解な、魅力を振りまいている)と恋に落ちるというお話で楽しかった。

冒頭のセリフ、英語の表現をチェックしないまま返却してしまったから、字幕の言葉なのだけれど、思わず書きとめた。

「あなたは何者なの?」「自分は何者なのか」

とは違う。

「自分が何者なのか」→「決意する」という、その行為に胸が突かれた。

そしてこの胸が突かれたという状態は、カフカの言葉を思い出させた。

「人間は自分の中に破壊しがたいものが存在するということを継続的に信じない限り生きることはできない」

自分の中の「破壊しがたいもの」の存在を確認したなら、もしかしたらそれが辛い作業とはなっても、確認したなら、そこに生きることへのこたえがあるのではないか。

いつもこんなこと言ってそうだけれど、仕方がない。一生考えながら行くのだろう、と思うのです。

軽井沢。今日は晴れていて暖かい。でも、ここのところ数日濃霧で寒かった。季節が、目に見える形で、肌に感じる形で、移り変わっています。

9月 3, 2007 |