2008/05/01

◎お知らせ◎「盗作」(講談社文庫)をぜひ◎

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http://www.amazon.co.jp/%E7%9B%97%E4%BD%9C-%E4%B8%8A-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%84-103-11/dp/4062759675/ref=sr_1_5?ie=UTF8&s=books&qid=1209615540&sr=1-5

発売されたばかりの「盗作」(講談社文庫) 飯田譲治 梓河人 著

の「解説」を書かせていただいています。

親友が早速上下巻を読破、私の解説も読んでくれました。

メールで感想をもらったのですが、「世界観が共有」「衝撃でした」「創作についての命題を与えられた」といった文字に、作品を共有できた喜びを覚えました。

そして、このところの私の状況(落ち込んでいるとかそういうのではないのよ、冴えない、ってかんじなのよね、と彼女に言ったのです)に納得できたと言ってくれて、私は他者に深く理解されたことの喜びを感じました。

私の解説については「余分なものがなく、・・・」という最高のフレーズをくれました。嬉しかった。

それにしても作品を読んでからもう随分ときがたつのに、いまだに「盗作」に支配されている感覚がぬぐえないのが正直なところだから、親友が推理したように、このところの「冴えない感」は「盗作ショック」の余波のせいかもしれません。

庭の木々がいきなり芽吹いて、ものすごい勢いで成長し始めました。桜の季節にもなりました。ようやく嫌いなシーズンを抜け出すようで、ほっとしています。

5月 1, 2008 |

2008/04/24

「啼く鳥の」 大庭みな子

「彼女は日常生活でもし自分が感ずるままのことを言ったり、したりしたら、それは攻撃的な、怒りと憤懣と悲しみに充ちた露悪的なものになり、他人を不愉快にし、その結果、みんなに危険な人間だと思われるに違いないと思ったので、嘘をつきつづけるしかなかったのだ。

嘘とはつまりこんなことだ。いやなことでも「はい」とすなおに言ったり、笑いたくないときでも笑ったり、つまらないことでも一生懸命やって、更に一生懸命やり続けることで、自分の頭を麻痺させてしまうというようなことである。

だがもちろんそんなことはとり立てていうほどのことはなく、見まわせば彼女の周囲の人びとは多かれ少なかれそれに似たようなことをしている感じだったので、しまいにはこの狸と狐の化かし合いのような生活というものが、やはりそれなりに何らかの意味があるのであろうと考えないわけにはいかなかった

以前にも紹介したことのある本から。

http://anais.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/index.html

頻繁に思い出す箇所で、ちょうど昨夜も寝る前に、頭にあった。そこに親友から携帯電話にメールがあり、大庭みな子さんを読んでいます・・・とあったので驚いた。

ところで、今回は以前引用しなかった、ラストの部分に反応している。

「何らかの意味」があるのだろう、と私も、考えないわけにはいかない状況になっているのではないか。

そんなふうに思い、かなり衝撃を受けるという形での反応。

とても白色に近い灰色の空から、雨がぼたぼたと落ちてきている、閉ざされ感ひじょうに高い、落ちつく朝です。

4月 24, 2008 |

2008/04/07

「ポトマック」 ジャン・コクトー

「あり得たかもしれないもの、省略されたものの、神秘な美しい重みを君は知っているか?

余白と行間、アルジェモーヌ、そこには犠牲の蜜が流れている」

何年も前に、朝日新聞のコラムで知って、当時発行していたメールマガジンで紹介したことがあった。

このところ、このフレーズが頭をぐるぐる回ることが多く、「ポトマック」を読んだ。けっして感動したとか、特別な小説だ、とか言えない一冊だけれど、やはり、何箇所かラインを引かねばならない箇所があるのは、コクトーだからだろう。

たとえば、

「君のなかで世間が非難するところのものを、十分に手を入れて育てあげたまえ、それがほかならぬ君なのだから」

という一文。

これなどは、今日はとても胸をつかれた。

コクトーが言うようなそれを、十分に手を入れて育てあげたのは、二十代の半ばからの十年間くらい。せっせと育てたように思う。

そしてそれ以後は、違う時代がやってきて、世間に非難されることが少ないような言動をとるようになってきて、ときどき不安になるから、大丈夫、外側と内側は別なのだから、内側の自分自身を大切に育て続ければ、自分は枯れないのだと、必死に言い聞かせながらきたけれど、それでは全然大丈夫ではないことに、ここのところ気づき始めている。

人間はそんなに弱くはない、とも思っているけれど、そんなに強くないのも事実なのだ。少しずつ、外側に内側が浸食されている。

雨の音が懐かしい。ああ、春になりつつあるのだなあ、と思える夜です。

4月 7, 2008 |

2008/04/04

「無限の網」 草間弥生

「一日ごとに早くなっていく加速度的な時間の中で、与えれた枠の内側で必死になってみてもたかが知れている、と考えることはおよそ空しく、無意味である・・・・・・(略)

 人生は真実素晴らしいとつくづく思い、体が震えるほど、芸術の世界は尽きることなく興味があり、私にはこの世界しか希望のわく、生きがいのある場所は他にないのだ。

そして、そのために如何なる苦労をしても悔いはない。私はそのようにこれまで生きてき、これからもそう生きてゆく」

日本の芸術家の実像にせまる、ニアイコール・シリーズで草間彌生のドキュメンタリー映画を観た。

それがあまりにおもしろく(何度笑ったことか!)、草間彌生のすっかりファンになって、かぼちゃの携帯ストラップを記念に買っただけでなく、アマゾンで自伝を買った。

熱く激しい人生に圧倒された。

以前ならば、ブラボーブラボー、芸術家はこうでなくっちゃ。

と、手放しで喜んだのだろうが、今は、もちろんそういう気持もあるものの、

「しかし、これができるということは、ある意味、ある部分、かなり鈍感にならなければ無理だろう」

とも思う。

もちろんそのアンバランスさがすべて芸術家の魅力になるのだけど。

そしてなんだかこのところ、バランスよくできてしまっている(自己評価だが)自分自身の凡庸さに、本気で落ち込んだりしている。四十をすぎると、自分自身が見えてきてしまって、でも、「もしかしたら」という幼い希望みたいなのも残っていて、すごくやっかいです。

4月 4, 2008 |

「命の器」 宮本輝

「私を溺愛し、どんな人間でもいい、ただ大きくなって欲しいと念じつづけてくれた人がこの世にあったということを、筆舌に尽くしがたい感謝の念で思い起こすのである」

胸をつかれた。

随分昔のこのエッセイ集を読み返すのは、もう三度四度目くらいなのに、自分のなかの迷いをなんとかしようと本棚から取り出して、読み始めて、今回はこの部分にしみじみと感じ入ってしまった。

本来そうでありたいし、そうなのだ。

なのに、私はなんと余計なものを、求めていることだろう。

雪がふったり、ぽかぽかしたり、気まぐれな軽井沢に翻弄された春休みが終わりました。

4月 4, 2008 |

2008/03/12

「サイゴン・タンゴ・カフェ」 中山可穂 

「過剰な愛はいつだってたやすく過剰な憎悪にすりかわるものだから」

一般受けはしないけれど一部の熱狂的ファンを持つ作家が、これまでとは違う形の小説を書いて、それが世間的な評価を受け、一方で熱狂的なファンから激しく抗議されたときのことについて語った言葉。

一方通行の愛の場合は特にそうだ。これは恋愛に限らない。血縁関係にあるもの、友人知人・・・。

過剰はよくない。自分が過剰にそれを抱くことを常に警戒しているせいか、私は少し足りないくらいの女になりたいと思うことがある。いろんなものが足りない、そういうひと。

さて。

待望の新作は、タンゴのリズムのなか紡がれた五編からなる小説集。

表題ともなっている五編目の作品が、とてもよかった。心が熱くなった。

そして五編目の作品を読んで、それまでの四編が違った色彩を帯びてくるという仕掛け(これは私が勝手にそう受け取ったのかもしれない)に、しみじみと感じ入った。

昨日は軽井沢も日中は十度を越え、へんてこな春陽気でした。冬から春への移行期、私が一年のうちでもっとも嫌いな季節です。

3月 12, 2008 |

2008/03/10

「いつか眠りにつく前に」

「母親は、何をしていても、子どもを傷つけてしまうもの」

昨日、新宿武蔵野館で観賞。

朝一番の回だったけれど、そして狭い劇場だったけれど、ほぼ八割が埋まっていた。

脚本を、「めぐりあう時間たち」のマイケル・カニンガムが担当していると知って期待して観に行った。

たしかに、好きな台詞が多かったけれど、全体としては私にはそれほどのインパクトがなかった。冒頭の台詞は、それを聞いた瞬間、忘れないように頭に刻みこんだが、正しいかどうかはわからない。

専業主婦でずっと家にいようとも、仕事ばりばりで家を空けていようとも、どの程度どのような関わり方を子どもに対してしようとも、母親というものは子どもを傷つけずにはいられない。

そのような意味の台詞が前後にあった。

ほんとうに、その通りなのだと思う一方で、これは誰にでも当てはまるものではないのかもしれない、とも思う。

何をしていようとも子どもを傷つける要素をたくさん持った母親と、そうでもない母親というのが、いるような気がしてならない。

(それでも毎度のことながら、このような台詞に出逢うとほっとしてしまう。逃げ場所を与えられたようで)

そして、こういうときに、「ぞうさん」の童謡と同じく、いつも「母親」なのだ。父ではなくて。嬉しいような損をしているような。

今、作品のタイトルを確認するために、ネットで調べたら、

「あなたが最期に呼ぶのは誰の名前ですか?」

という問いかけがあり、映画を思い出して、映画の主人公の場合は、アノヒトだったな。私は誰だろう、と今、あらためて考えてしまった。

朝はぼたぼたの雪が狂ったように降り、今は雨まじりの雪に変わって、季節の変化を強く意識させるお昼前に、そんなことを考えているのです。

しつこかった風邪もようやく治り、エナジーが少しずつ、身体にじわじわと広がってきています。

3月 10, 2008 |

2008/02/18

「雪の道」 辻邦生

「だからその文化とか歴史とかいうことが、私には何となく空疎な考えのように思えてきたの。

それより一日一日の、あなたの言い方に従えば<消費され消えてしまう時間>の中に幸福があるのではないかしら、と、そう思えるわけ。

文化とか歴史とかの名目で、人間はこうした歴史にならない部分の意味を、故意に貶めていたのじゃないかしら」

ぜんぜん、冴えない。

と悲観してすねるのを防ぐために、煮詰まったときは、ノートを開く。

好きな言葉たちが、乱雑に書き連ねてある。今回、「ん?」と思ったのはこれ。

読んだ記憶がないから、引用からの引用かもしれない。それすらわからなくなっている。

でも、どうして以前に、これを書き写したのだろう。なんとなく反発して・・・・・・のような気がする。たぶんそうなのだろうな。

けれど、今は、これが、感覚的に理解できる。意見として賛成します、ということではなく、理解できるのだ。<消費され消えてしまう時間>って、ああいう瞬間を言うのだろうな、という場面場面が、頭に浮かぶ。映像はもちろん、温度もともなって。

このところ、すごく忙しいように、感じる。色々なことが重なって私の上に乗ってくるようなかんじ。「敏感」だから、と思いたいけれど、事実は、心身ともに「脆弱」なので、すぐに不調になる。不調になると、周囲に優しい気持を抱くのが難しくなる。そして<消費され消えてしまう時間>のなかに幸福を見出すなど、「不可能です!」と叫びたくなる。

それでも、季節が変わろうとしている瞬間を、ときどき感じて、空を見上げたりして、空の色、雲の色なんかをじっとみたりして、ただそれだけで生を感じるときだってあるのです。

2月 18, 2008 |

2008/02/15

「ラスト、コーション」

「今まで誰の言葉も信じてこなかったが、おまえの言葉だけは信じよう」

切実な瞳で、孤独な男にこんな台詞を言われたら。

とひとり想像して、胸を熱くしている。

平日の朝9時15分の会だったのに、八割の客席が埋まっていた。日比谷シャンテで、私は久々に映画にのめりこんだ。

濃厚な性のシーンが話題、というのもすごく楽しみだったけれど、なんたって、主演がトニー・レオン。早く観たくてうずうずしていたのだった。

そして、断言する。全部観た訳ではないから、とてもいいかげんだけれど、トニー・レオンが出演した映画のなかで、これ、だんぜん、1番です。

目だけで、女を、別世界にいざなうことができる男。

それを再再再確認。

そして、深く激しい情念の、世界。男と女の不滅の絆の世界。

ラスト、美しいヒロインが、ぎりぎりのところで選択した、「それ」に、私は激しく共鳴する。

こうでなくては。

生きていてつまんなすぎる。というか、むしろ、そうでないやりかたは、生きている、と言ってはいけないのではないか。

とまで思わせる、ほんとうに、すばらしい映画。

観たのは昨日なのに、まだぜんぜん、その世界から抜け出られないのでした。

2月 15, 2008 |

2008/02/07

「娼婦と鯨」

「価格と価値は違うのよ」

娼婦の女性が少年に「大事なことをおしえてあげるわ」といったふんいきで言う言葉。

自分の持ち物(バッグ、靴、服、アクセサリーなど)を見渡して、自分にとっての「価値」と、市場「価格」とがぜんぜん一致していないことを再確認した。

映画としては、私にとってはそれほど心に残らなかった。

それよりもちょっと前に観た映画「ラスト・ホリデイ」が、なぜがじわじわと後を引いている。

典型的な娯楽映画なのに。余命わずかの主人公が、最後にありったけの財産を使ってやりたいことをする、それがとても爽快なストーリー。それでラストはお決まりのハッピーエンド。

なのだけれど。

やたらと頭のなかをうるさくさせるのだ。

もしかしたら、人は、知らず知らずのうちに「守り」に入り、なけなしのものを「蓄える」ことに執着し、飛ぶことを恐れ、結果、つまらない人生を送るのかもしれない。

すべてを賭けて飛んでみたら、もしかしたらその先に、とんでもなく刺激的な人生があるかもしれないのに。

自分がどうもその守り体制にいるようで、だから、あの映画がいつまでも頭から消えないのかもしれない。

氷の町、軽井沢。人々の家の「つらら」を見るのが楽しいシーズンです。

2月 7, 2008 |