2010/02/05

■「ただの文学」 坂口安吾の夜■

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ここ一週間の夜の恋人は坂口安吾。

と言っただけで親しい何人かのひとは、「そっか。彼女は自信満々バリバリモードとは程遠い、クライシスワールドにいるのか」と思うはず。そういうひとがいることがすごく幸せなのだとかんじられるところまで、いまきている。

昨夜は「ただの文学」というエッセイを読んで、文庫本を抱きしめてしまった。比喩ではなく、ほんとに抱きしめた。そうよね、そうよ、だいすき、あんご。

内容は、歴史文学ってものはあるのか? じゃあそれに対抗する文学ってなんだ? 僕には意味不明な分類だ、といったことからはじまって、安吾節が炸裂する。

いわゆる歴史文学で言われがちな、「どれほど真実に近いか」という問題について。たとえば「小野小町」。どの小野小町に似る必要もない、「どこにもほんとの小野小町はいやしない」。だから、「何人の小野小町が存在してもかまわないし、存在することができさえすれば、文学として、それでいいのではないか」と言う。

そして自分が自伝的小説を書いても、同じことが言える、と言う。実際に在りのままを書いているけれども、だから「真実」であるとは「僕自身言うことができぬ」。

「なぜなら、僕自身の生活は、あの同じ生活の時に於ても、書かれたものの何千倍何万倍とあり、つまり何万分の一を選び出したのだからである。

選ぶということには、同時に棄てられた真実があるということを意味し、僕は嘘は書かなかったが、選んだという事柄のうちには、すでに嘘をついていることを意味する。

(これって日常生活のなかで私が常に感じていること)

嘘と真実に関する限り、結局、ほんとうの真実などというものはなく、歴史も現代もありはしない。

自分の観点が確立し、スタイルが確立していれば、とにかく、小説的実在となりうるだけだ、文学は各人各説で、理窟はどうでも構わないのだ。」

坂口安吾を読んでいると、なんて精神が自由なひとなのだろう、と思う。胸が熱くなる。憧れ、すこしでも近づきたいと願う。

あいもかわらず、ぜんぜん自由じゃないじゃん、と自分でつっこみたい精神をもてあまして、さらに、人との距離感に臆病なまま結局、慎重すぎて失敗したり、そんななかでも優しくて愛しい色彩に心なぐさめられて、昼間でも氷点下の軽井沢で、今日もひとり、奮闘しています。

2月 5, 2010 ■フィクション・ダイアリイ■, :::言葉の泪壺::: |

2010/01/28

■一冊の情報誌に■

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「スミセイベストブック」2010年1月号に、『ココ・シャネルという生き方』が内容紹介と著者インタビュー、3ページにわたって掲載された。取材はずいぶん前だったから、すでに懐かしいくらいの思いで、届いた雑誌を開いた。色々な本が紹介されていて興味深い。ふだん私は週刊誌も新聞もテレビもナシの生活をしているから、新鮮なのだ。

もっとも興味深い、というかほとんど胸打たれたのが五木寛之の『人間の運命』についての記事。ご本人の写真も掲載されていて、食い入るように見てしまった。とても、とてもよいお顔をなさっていたから。1932年生まれ。このような顔の77歳なら、私もそこまで生きてみたい、と思わせるほどに、とにかくとてもよいのだった。もうちょっと表現のしようはないのか、と自分でも思うけれど言葉が見つからない。

内容紹介に惹かれてもちろん『人間の運命』は読むことに決めた。

記事で胸をつかれた箇所を。

「五木氏は、十代半ばの少年のころから、バランスを欠いた自分の心に不安と恐れを感じ続けてきた、と述懐する。いまも眠りはなかなか訪れず、午前六時ごろに睡眠導入剤を飲んでベッドに入る。だからと言って、いま切実に求めているのは、不安の解消や熟睡などではない。それでも押し潰されずに、毎日を生きていくことのできるエネルギーがほしいのである。それは生き甲斐というのとは少し違う。

 単純にいえば、自分の心の奥の、なんともいえない暗い闇を照らしてくれる光がほしいと思うのだ。」

 苦しみながらも人生について生きるということについて人間について、深く重い洞察を続ける作家と同じ情報誌に自分がいる、ということについて、私はふるえた。自分を恥じるとか、シニカルな目線ではなく、本を書くということの重さがずしんと響いたからだ。このところのふらふら浮遊ぎみの精神にとって、それはかなり強い衝撃だった。

1月 28, 2010 ■フィクション・ダイアリイ■ |

2010/01/26

■挫折と希望と……■

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「作家なんていうのは、挫折と希望の繰り返しでしょう」

たしなめるように、いたわるように言われて、涙しそうになってしまうのは、挫折ワールドにいる証拠だ。世界は無理解と理解が好意と嫌悪が、共鳴と隔絶があって、そんなのはわかりきっているのに、いちいち反応してしまう自分にうんざりする。

「大人はいいな。宿題がなくて、学校に行かなくてもよくて、好きなことができて」

「とんでもない。好きなことができているひとは、ほんのひとにぎり」

「じゃあ、ママはいいな。好きなことができて」

「好きなこと、か。たとえそうでも、それでも、苦しいときも、わりと多い」

そんな会話を朝、かわしてしまったり。

「人は結局、生きるべき運命を生きるものだ」

ベジャールの言葉に、自分の人生を考え込んでしまうのも、同じこと。挫折ワールドにいる証拠。

それでもそんなとき友から一通のメールが届く。私の作品を読み返してくれたと言い、それだけでもすごく嬉しいのに、さらに美しい言葉をくれる。胸に響く。深く感謝する。

そう。

人生の挫折めいたそんなときこんなときは、なにも無理して自分を酷使することはない。理解と好意と共鳴をくれるひとの側で憩っていればいい。それが悪いことであるはずがない。愛ある世界が悪いわけがない。そんなふうに思う、晴れた午後です。

1月 26, 2010 ■フィクション・ダイアリイ■ |

2010/01/21

■言葉の魔力■

久しぶりに、言葉にぞくりとした。

ジャック・ブレルのシャンソン、その歌詞に。

「東風が執着を響かせる」「空は恥じいるほど低く 空は運河が首を吊るほど灰色で 空は赦したくなるほど灰色で」

といった表現。言葉でできること、言葉でしなければならないこと、言葉でしたいこと。そういったことがものすごい勢いで私のなかをめぐった。

とっても貴重な瞬間を1月20日の、外気温がヘンに上昇していた午後、あたたかな室内で体験しました。

1月 21, 2010 ■フィクション・ダイアリイ■, :::言葉の泪壺::: |

2010/01/10

☆「美神(ミューズ)の恋」発売です☆

100110_094203 美神(ミューズ)の恋 ~画家に愛されたモデルたち』(新人物文庫)が発売されました。私の処女作である『彼女はなぜ愛され、描かれたのか ~大人のための恋愛美術館』(すばる舎)の文庫版です。

『彼女はなぜ~』を既にお買い上げくださっているみなさまのなかには、「あ。文庫化ね、じゃあ、今回はパス」なんてお思いの方も稀にいらっしゃるかもしれませんが、ノンノンです。

なぜなら「ダリ×ガラ」という最強のカップルが加筆されていますし、文庫版刊行に際しての「あとがき」もちゃんと書きました。ですからぜひ、お買い求めくださいね。

タイトルですが『美神の恋』で、美神の横に「ミューズ」というルビがあります。ですから他のひとに宣伝してまわるとき、音としては「みゅーずのこい」ってすごく面白いよ! になりますし、メール手紙その他で宣伝してまわるときには「美神の恋」の美神にミューズのルビをふるか、「美神(ミューズ)の恋」と表記することになります。

自由にしてくださってけっこうですので、どうぞよろしくお願いします。

写真、新刊の隣に、神々しくたたずむのは、「接吻像」。

本の奥付の「2010年1月9日」。発行日当日の朝、我が家に届けられた、心優しき御夫婦からのプレゼントです。毎日この像に「接吻」したらたくさん売れるのではないか、と心ときめかせています。

1月 10, 2010 ☆お知らせ・ご案内☆ |

2010/01/06

■エリュアールにはじまった2010年■

100106_125601このわたしは 

あまりにもあなたの近くにいたので

他のひとたちの近くでは  寒いのだ

元旦の朝、なぜか、エリュアールのこの詩がリフレイン。覚えてはいないけれど、なにかそれに関する夢でも見たのだろうか。

エリュアールが愛するひとを失ったときにつくった「生きているわたしの死者」という、新年早々縁起でもない、と言うひともいるかもしれないタイトルの詩なのだけれど、私はこのフレーズは、ふたりの関係密度、そして喪失のかなしい実感を、しずかに表現していると思う。そして永遠の喪失でなくても、逢えないときの恋心にも熱く寄り添う。だいすき。

というわけで。どうやら私の2010年はエリュアールで幕を開けたようです。文学的だわ……。と自分を鼓舞しつつ、仕事にとりかかります。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

みなさまにとって、美しいシーンの多い一年でありますように。

1月 6, 2010 ■フィクション・ダイアリイ■, :::言葉の泪壺::: |

2009/12/30

■人生のクライマックスという言葉を想う■

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2009年も終わろうとしている今夜、一年分のブログと、あとは一年分のノートのメモなどを眺めて、私の2009年はあらゆる意味を含んで、やはり「かるいざわ朗読座」に集約されるのだろう、と考えている。

私の作品世界を好きだと言ってくださる方に導かれて支えられて脚本をつくり、それを天才たちが表現してくださる。

2009年の11月21日は、私の人生においていいようもない重要な日だった。拍手のなか、ステージにあがり挨拶をし、舞台裏で涙とともに天才たちを抱擁し、私は幸せのエクスタシーにどうにかなってしまいそうだった。

43年の人生の、いくつかのシーズンは死を想わないではいられないほどつらい日々があった。ようやく見つけた進むべき道を、見失いそうになったことも何度もあった。

それでもなんとか生きのびて書き続けて、そしてあの日があったのだと思う。

出逢いがすべてなのだ。

けれど出逢うためには、出逢いに続く道を歩き続けなければならない。だから歩き続ける。ともに歩くひとがいるときは手をつないで、ときどき駆け足になりながら道をゆき、ともに歩くひとがいないときには、孤独につぶれそうになりながらも、信じた道を進むしかない。

私のブログを読んでくださっている親愛なるみなさま。

どのような一年でしたか。みなさまの2009年、クライマックスという言葉から連想される瞬間はどのようなときでしたか。

あたたかなメールをありがとうございます。作品についてのあたたかな言葉に、いったいどれほど励まされたことでしょうか。ほんとうに嬉しく受けとっています。

12月 30, 2009 ■フィクション・ダイアリイ■ |

2009/12/25

「本格小説」 水村美苗

ただ人間には自分が知っている以上のことを知らずして知ってしまう瞬間があり、あの瞬間がそういう瞬間だったのにちがいありません

やっと見つけた。さいきん「本格小説」のことが話題にのぼって、けれどぶ厚い上下巻で私はそれを図書館で借りて読んだから手元になく、でもすごく印象深い一文があったこととそれをノートに記したことを思い出し、どうしてもその一文を正しく知りたくなった。

091225_114301 いつ読んだのかさっぱりわからないから、かたっぱしから過去のノートのページを繰った。そうやっていると本来の目的をそれて、落書きをしたときの心情をなつかしく思い出したり、ヘンなメモにいやあな気分になったり、あっという間に時間が経過する。

ようやく目的の一文を見つけた。そうそう、これ。

「人間には自分が知っている以上のことを知らずして知ってしまう瞬間があり」、これをときどき、背筋がすうっと凍るような感覚とともに思い出すことがあるのだった。

それは「知ってしまう瞬間」を経験したときだったり、「あ、知ってしまいそうだ」という予感にうちふるえて、目を覆ったり耳をふさいだりするときに、思い出す。以前は知ることができるなら全部知りたい、という気持ちが強かったけれど、さいきんは違う。知らないほうが幸福なままいられるのなら、そのままで。と思うことが多くなったように思う。弱っているのだろうか。それとも。

今日は世のなかはクリスマス。イエスの存在を信じ、信じたい人間を愛しく思う、と言ったクリスチャンの友を思う。体調もよいので、夜は娘とふたりで軽井沢高原教会に出かけて美しいイルミネーションを見ようか、と考えています。

12月 25, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/12/21

「シンプルな情熱」 アニー・エルノー

091221_123401私には思えた。ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向かうべきなのだろうと

何度も読み返す本のグループに入っている一冊。

恋をするということはこういうことです。

それだけが語られていて、見事だと思う。ただ、この作者が無名だったらここまで評価されたのかな、と疑問は残る。換言すればそれほどまでに、尖っていなくて読者を選ばない小説ということになる。私は好きだけど。

冒頭の一文は最初に出てくる。語り手の女性がポルノ映像を観て、そのあとで物を書く行為につなげる。

よくわかる。「道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態」のなかでなければ書けないから、よくわかる。そしてその状態のなかに入りこんで「ああ、もう飽きた、いったん出よう」と自らが思うまで入りこめたら、こんなに幸せなことはない。書くという行為に焦点を絞って考えれば。

その状態に向かうというエナジーは、実は他者は関係なくて、日常のあれこれも関係なくて、問題は自分自身なのであって、だから日々格闘しているのだった。

今日の軽井沢は晴れていて、でも最高気温がマイナス一度なのだそうです。ぬくぬくとした部屋で、これから「道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態」へ入りこんでみようかと企んでいます。

12月 21, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/12/17

◎ラマン愛人 最終章◎

091217_200601 映画公開時のタイトルは「デュラス 愛の最終章」。

このところ、やたらと思い出すことが多いので、DVDを購入した。きっとこれからも何度か観るだろうと思ったからだ。

3年前はこんなふうに書いた。↓

http://anais.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_ad15.html

今回、このときとまったく違うことを思ったわけではないけれど、別のことに胸をつかれ、やりきれなくなった。

作家デュラスの最後の16年間。若い愛人ヤンと過ごす日々、若い彼のことを彼女なりに、彼女のやり方で愛してはいるけれども、ヤンは作家デュラスを愛しているので、デュラスは書かなければならない。書かなければ愛されない。

書かなければならない? 愛されるために? 

ちがう。書くことはデュラスにとって生きることそのもの。だからヤンと出逢う以前、休筆していた彼女は、真の意味で生きてはいなかった。そしてヤンと出逢い、インスピレーションとエナジーを与えられ、再び書き始める。そして、それは同時にあるものとの闘いの始まりでもあった。そう思う。

あるものとは「時間」。なにか猛烈にやりたいことがあるとき、突如として姿を現すもの。

時間。これがとても胸に迫った。ふだんはそれほど意識することのない時間。容赦なく過ぎてゆく時間。どんなにその「とき」を愛していようと、抱きしめたいほどに永遠に止めてしまいたいと願おうとも、残酷に冷酷に、ときは過ぎてゆく。

やりたいこと書きたいことがたくさんあるのに、迫り来る終わりのとき。

そこに痛いほどに感じた。かけひきや計算や力をゆるめたり力を入れたりする行為、そういうものが「いらない」と思える人生のシーズンは、確かにあるようだ。たいていはうじうじもじもじしながら過ごしていて、それもまた私だと諦観しているのだけれど、ジャンヌ・モローが演じたデュラスを観ながら、たまらなく「時間」を恨み、たまらなく「時間」を愛しく思い、祈りに似た気持をこころに深く抱いた午後を過ごしました。

12月 17, 2009 ◎薔薇色の映画◎ |