パソコンに向かって、「書けるかな」と思いながら、キーをたたいている。
毬谷友子の『弥々』を観たのは先週10月28日の水曜日。あれから一週間が経ってようやく「書けるかな」というかんじになった。といっても、まだはっきりとはしていなくて、決定的なある部分は薄ぼんやりしたままだけれど。
はじめて毬谷友子を、『弥々』を知ったのは、二十代の後半くらいだったと思う。
あの頃はしょっちゅう資料を探しに新宿の紀伊国屋書店に行っていて、あの薄暗くて狭い階段の壁に、『弥々』のちらしを見たのだった。なにに惹かれたのだろう、それはよく覚えていないけれど、私は、その日に、ひとり分のチケットを購入した。
そして紀伊国屋ホールで、『弥々』を観た。なにを、どのように、ということは全く覚えていないのだが、ただただ、圧倒され、はげしく感動したことはよく覚えている。くらくらになりながらホールを出て、ひとり新宿の街を歩いた。
それでも、私は「芝居」はあまり好きではなく、映画はたくさん観るのだけれど、芝居には足が向かないので、毬谷友子のものはすべて、というファンにはならなかった。それでも創作上のベクトルがときおり、そちらに向かう。
たとえば、はげしく敬愛する坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を、野田秀樹がミックスして創った「贋作 桜の森の満開の下」という舞台、夜長姫を毬谷友子が演じていた……ということを知り、ネットを隅から隅まで探して、でもDVDはなくて、VHSのテープを入手したり、映画『外科室』に出演していることに感激したり。そして昨年は「いさかい」を観に行き、その才能を目の当たりにした。
その程度なのだが、私のなかでは、特別な、女優。
そして、10月28日。私自身に異変が……。
と、あいかわらずオーバーな表現だと揶揄されそうなのだが、毬谷友子が舞台に登場し、『弥々』の物語が始まったら、胸が、なみうつように、動き始めた。
あれ、やだな、こんな序盤から涙が。
と動揺するほどに。そんなかんじだった。
物語の筋は知っているから、涙はきっと物語自体にではない(物語がよくないというわけではない、念のため)。
だから、私の『弥々』に対する視線、姿勢は、「正しくない」のかもしれない。
けれど、事実として、およそ百分の物語が終了したとき、私は嗚咽を止めることもできず、毬谷友子の挨拶が終わったとたんに化粧室にかけこんだ、そして水を流しながらハンカチで声を殺しながら泣いた。
こんなことって、いままでにあった?
と自問する。
それよりも。なにより重要なのは、この涙は、この動揺は、この感動はなに?
ということなのだった。
私は、あの舞台の、何に、こんなに感応してしまったのか。
そんなふうに、考えながら、はっきりとはわからないままに一週間が過ぎている。そんな状態。
わからないままに、それでも今の気持を書き残しておこうとするならば、やはり、あの舞台、ひとりきりの舞台で『弥々』を演じていた毬谷友子は、とっても「生きている、」というかんじがしたのだった。
「生きるということ」のすべてがあの瞬間にあり、その姿、熱空間に、私は美を見たのだと思う。
こころのそこから信じられるもの。すばらしいと心底おもえるもの。それを毬谷友子はもっているのだと思った。それは毬谷友子の父である作家の矢代静一が娘に残した脚本であり、父が残した作品に、疑問をひとかけらも感じることなしに、彼女はどこまでもピュアに、てらいもためらいもなく、演じることがこんなに好きなのだという空気をいっぱいに身にまとって、そこに存在していた。
「いさかい」のとき、私はこのブログに「才能の化身」という言葉を使った。
今回はそれに加えて熱情が、真摯なパッシオンともいうべき熱情が、そこにあった。それは私が信じたい生の形だった。
私がもっとも信じるところの恋愛という形ではなしに、ひとりの人間が、ひとりの人間を、これほどまでに、うつということが、人生には起こりうる。そういう意味で、やはり、あれは私にとって特別な芸術作品そのものだったのだ。
いや、もしかしたら……。マグダラのマリア弥々に、私は心うたれたのかもしれない。いつのまにか毬谷友子ではなく『弥々』そのひとに。と、いま、ふと思って、せなかがぞくりとした。
*「いさかい」の記事はこちらから。21日の記事です。
*『毬谷友子ひとり語り 弥々』ちらしより、抜粋。
[戯曲は文学であるべきだ]と父が言っていたことを思い出します。[ひとり語り 弥々]はそんな父の言葉に対するオマージュです。そして矢代静一の原稿用紙の中に来てくださった皆様に、一対一で弥々と向き合っていただくことができたら、と願いを込めた私の挑戦です。どうか、弥々が皆様の心の中に何かを残していくことができますように・・・一人でも多くの方に弥々を知っていただけますように。 毬谷友子