2009/07/05

■同じ誕生日のふたり■

090705_154101 あなたは、夏になると活動的になるね、軽井沢の冬が好きだとか言って、毎年長い冬の間こもりモードになるけど、私は活動的な夏のあなたのほうが好きです。

と、知人に言われた。

冬のこもりモードがないと、まとまったものが書けないから、もしかしたら憧れの季節労働者に近づいているのかも! と意味不明なことを考える今日この頃の、眠る前の本はサガン、「私自身のための優しい回想」。

昨夜は、サルトルとのくだりを読んで、なんだかとても胸が熱くなった。熱くなった後、ぐーっと眠ってしまったけれど。

サガンとサルトルの年齢差は30歳。

サガンは物ごころ……というより「作家ごころ」ついてからサルトルを敬愛していた。

サルトルが七十四歳の時、新聞にサルトルへの愛の手紙を発表。

ふたりはサルトルが亡くなるまでの一年間、とっても親密になり、10日に1度、と約束して夕食を共にしていた。

盲目となっていたサルトルは動作もかなりぎこちなかった。周囲のひとたちはそんなサルトルについて「耄碌した」などと嘆いてみせたけれど、サガンはそんな人々を悲しみ、サルトルのすべてを愛した。

「私は彼の手をとって支えるのが好きだった、そして彼が私の精神を支えてくれるのが……」

「あの陽気な、勇気ある、そして男らしい声を聴き、彼の話題の自由闊達さに耳を傾けさえすればよかった」

ふたりの会話! どんなに魅力的だったことだろう! 想像しただけで胸が躍る。

ふたりの間にたしかに存在する敬愛の感情、出逢うべくして出逢ったという確信、言葉の一致、ともに過ごす時間に対する意識(どれだけ貴重なのか、痛いほどに感じているということ)、そういうものが夕食のテーブルの上に、あっただろうと私は想像する。

サルトルは1905年6月21日に生まれた。

サガンは1935年6月21日に生まれた。

こういう運命的な一致にサガンもサルトルもぞくりとしただろうけれど、サガンの愛読者の一人である私も、ぞくりとし、人と人との出逢いということに想いを泳がせるのです。

7月 5, 2009 ■フィクション・ダイアリイ■ |

2009/06/29

◎それでも恋するバルセロナ◎

090620_193201 成就しない恋だけがロマンティック。

ある程度、経験年齢を重ねれば、大部分のひとが知ってしまう、この真実を、ウディ・アレンが描いた映画。

それで、「成就」って何だろう。結婚なのかな。結婚って成就なのかな。違うよな。「なにかの事柄が二人の間にあって、それで二人は逢いたいときにいつでも逢える状況にない」、そういう恋だけがロマンティック。

そういう意味なんだろうな。

……というのは、あとからくっつけた所感で、観ている間、私はひたすらバルセロナに行って、バルセロナの街を自由自在におよぎたい、という欲望に支配されていた。

自分の内側に抱えこんでいる色彩の種類は、年齢とともに増える一方で、それでも、人生のあるシーズンは身を潜めていたりするから、忘れていたりするのだけれど、映画とか本とか、人との出逢いによって、突然に姿を現す。

「それでも恋するバルセロナ」、この映画は私のなかから、「ほら、あなたこれ、もってたでしょ」と、ひとつの色彩を取り出して見せた。濃いピンク色だった。

6月 29, 2009 ◎薔薇色の映画◎ |

2009/06/28

「裸体の森へ」 伊藤俊治

090629_094101ハイヒールがかかとを上げ、ヒップをもちあげ、バストや腰を前面におしだし女体にきらびやかな角度をつけた時に、ロングブーツが足首を伸びやかに固定した時に、ホブルスカートが脚をそろえぴったりとおし包んだ時に、黒いストッキングが脚のラインを強調し、実物以上にセクシーに見せた時に、シャッターは押された」

都会の夜を歩いていたら、シャッター音を聞いた。久々に肌がざわっとした。

帰宅して、リビングに置いたままになっていた本を手にとった。ソファに横になって、カバーを眺めた。

カバーに、冒頭の文章があった。好みの……つまり、図々しく言えばいかにも私が書きそうな文だったから同調して、ぞくりとした。

伊藤俊治さんの本は「シュルセクシュアリティ」にしても「マジカルヘアー」にしても、そして「裸体の森へ」にしても、私の重要なテキストとなっている。なにかの小冊子なんかでも、なにげなく読んでいて、「あ。これ、もしかして」と著者名を見ると、伊藤俊治さんだったりする。いつかお会いしてお話しできたらなあ、と思うひとの一人なのです。

6月 28, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/06/25

◎歓びを歌にのせて◎

31a9vh5d23l__sl500_aa192_ DVDで観賞。予備知識ゼロで、だから期待もせずに観たけれど、心に響く映画だった、ようだ。

ようだ……、なんていやらしい表現をしてしまうのは、観終わってすぐは、「うん、よい映画でした」でおしまいだと思っていたのに、ここ数日、ふとしたひょうしに、主人公と恋人役の女性の会話が頭に浮かんで、それから、いくつかの情景につながる、そういうことがあるから、そうか、静かに心に響いていたのか、とひとごとのように感じている、というわけなのだ。

じわじわときいてるみたい。

いくつかの情景につながるきっかけとなる会話というのが、メモしなかったから正確ではないけれど、次のような感じ。

「(そのひとのことが)好きだと、どうしてわかるの?」という女性の問いに、主人公の男が答える。

「一緒にいるととても幸福だ」

そう。なんてことのないやりとりなのだが、この種のやりとりが何回か出てくるので、私はそのたびに考えていた。

ほんとうに、どうしてそのひとのことが好きだとわかるのだろうか。「どうしてそのひとのことが好きだとわかるのですか?」と聞かれたら私は何と答えるだろうか。

そして主人公の答えに、いくにんかのひとを思い浮かべて、一緒にいて幸福だっただろうか(過去バージョン)。一緒にいて幸福だろうか(現在バージョン)。なんてことを考えた。

ストライクゾーンが広いのだろうか。「幸福」というくくりでみると、わりとみんなクリアしているように思う。

そんなことをここ数日考えて、今朝、アイラインを引きながらふと思い浮かんだのは、「不在」という言葉で、そうだった、私の場合、恋愛感情の「好き」は、たしかサガンの言葉の借用だったと思うけれど、「そのひとの不在を強く感じること」なのだった、と思ったのでした。

6月 25, 2009 ◎薔薇色の映画◎ |

2009/06/22

◎愛を読むひと◎

「朗読者」は好きな本で、映画化されると知ったときは嬉しくて、さいきん、そのタイトルが「愛を読むひと」で、監督と脚本が、あの「めぐりあう時間たち」と同じと知って、ぞくりとした。

美しい映画だった。

とちゅう、正義について激しく語る学生が出てきて(主人公ではない)、そのとき強く、「ああ、この子の気持分かる、私にもあった、そういうときが」と思い、自分が年齢を重ねたことを実感した。

そうなのよ、ほんとうに、あなたの言う通りなの、でも人間って、こんなに愚かしかったり、状況に弱かったり、慣れるのが得意だったり、無感覚に身を委ねるのが好きだったりする、そういう生き物なのよ。だから、すこしだけあとからみれば「なぜあのようなことを」と絶句し、嘔吐するようなそんなことを、これからもしてゆくと思うの。それでも時折、許しがあったり、慈悲があったり、見えないほどに小さかったりするけれど愛があったりするから、すくわれるの。「こんな世界、生きる価値があるのか」と思ったときもあったけど、問題はそこにはなかった。生きる価値があるかどうかの問題ではなく、とにかく、生きなければならないのよ、このところはそのように思うの。

激しく雨が降る軽井沢で、濡れそぼる木々の葉を眺めながら、映画のなかの、あの学生にひたすら語りかける、ひたるのが大好きな女となっています。

6月 22, 2009 ◎薔薇色の映画◎ |

2009/06/19

「灼熱」 シャーンドル・マーライ

090619_083101人間もまた、我が身に起こる出来事を自分の手で作りだしているのだ。作り出し、呼び寄せ、起こるべきことをつかまえる。人間とはそういうものだ。たとえ最初の瞬間に、自分の行為が致命的だと悟ってもやめられない。

(略)

運命というのは、我々の人生にこっそり忍び込んでくるのではない。我々が開け放った扉を通って入ってくるのだ

主人公の、一人語りが、えんえんと続く物語。男の友情という、現代ではあまり見かけなくなったものをテーマにした物語。

その、くどい語りや、理屈っぽさ、自己陶酔ありの比喩の引用に、(わたしみたいにいやなひとだ、)と苦笑いしつつ、それでも自分と似ているところが多分にあるから、途中でやめられなくて、結局、引き込まれて、休憩なしで読みきってしまった。

久しぶりに、出逢った感あり。

ラインを引き、ノートにうつしたい文章がたくさんある、そういう小説だった。「生きるということは、耐えることなのだ」という著者の声が強く胸に響くような、そういう小説だった。

このところ、微熱モードが続いている。うみだしたい、という欲求があるのが感じられる。逃げないように、慎重につかまえておきたい気分の、朝です。

6月 19, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/06/12

「人間の覚悟」 五木寛之

「人間は、たとえ意識がないように見えても、魂、というとおかしいかもしれませんが、目に見えない、科学的に証明できないものを持っているようです。

それを含めて私たちはその人を介護し、ともに抱えこんで生きていくことで、人間の全体的な生存状態が確立されるのだろうと思います。

だからこそ、人は常に自分にとっては厄介な、自分以外のものをケアしながら生きていかなければならないと私は考えているのです」

図書館で借りてきて、側に置いておきたくなって、購入した一冊。

長い間、意識がない状態のままの、あのひとのことを時々(冷酷だ)、思い出して、意識がないまま生きながらえるのをきっと嫌うだろうあのひとの痛みを感じてきたけれど、もしかしたら、それは違うのではないか、と思った。「違わないかもしれないけれど、違うのかもしれない」と思った。

そういう意味で、とても新鮮な本だった。

いま、机の上のメモには、自らが命をかけて表現したいものは何か? という殴り書きがある。

「人間の覚悟」には「伝えたい」というエナジーが、たしかにあった。

老いとか死とか鬱とか、そういうテーマを扱いながらも、静かな人間肯定があって、読後感は安堵感に、とても近かった。

6月 12, 2009 :::言葉の泪壺::: |

2009/05/24

■そういうひとのいる幸せ■

090524_093101_2 時間の重みと、芸に命をかけた人々のおもいを、感じる、それは物語をつくるひと、演じるひと、演出するひと、音楽、衣装、道具……舞台をつくるすべてにかかわった人々の、おもい。

奇跡的な色彩の美しさ。

その世界へいざなってくださるひとのいる幸せ。

美しいものは、人生の憂鬱をすこし払ってくれて、美しいものは、人生によろこびがあったのだということを、しずかに思い出させてくれるのでしょう。

5月 24, 2009 ■フィクション・ダイアリイ■ |

2009/05/22

■気持のよい日■

090518_133301 今週の水曜日は、「これほどまでに快適な日は、一年に何度あるだろう!」と感嘆するほどに、よい気候だった。晴れていて、ちょうどよい気温、湿度で、緑は濡れたような色彩で、そして、必殺(意味不明)「そよ風」。

あまりにも気持が良いので、仕事場の窓から庭のようすを撮った。

そしてこの日は……。お昼はとっても久しぶりのお友達との会食。そして午後から夜にかけては、これまたとっても久しぶりの知人が、軽井沢にいらして、仕事がらみではあるけれども、楽しい遊びをしているような時間を過ごせた。

毎日、このくらいのテンションで過ごせたら、私はいい人になれそうな気がする……。

眠りにつくまえにそんなことをふと思いました。

5月 22, 2009 ■フィクション・ダイアリイ■ |

2009/05/11

「坂口安吾全集 14」

090511_113501 すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。その人その人の容器に順って、悲しさを歌い、苦しさを歌い、悦びを歌い、笑いを歌い、無意味を歌う。それが一番芸術に必要なのだ。これ程素直な、これ程素朴な、これ程無邪気なものはない。この時芸術は最も高尚なものになる。

昨年末からずっと続いていた緊張の糸が、ある日、ぷつりと切れてしまった。切れたな、と感じられるほどに、切れた。それは一つの原稿をあげたという具体的理由があるのだが、瞬間に体調を崩した。そして風邪をひいた。43回目の誕生日は、ほとんどベッドで過ごした。それから一週間ひきずった。その間も仕事をしたけれど、あまりのだるさに精神が落ち込み、あぶないな、と思った。そこで、あとさきのことや、さしあたっての仕事のことも考えず、できるだけ眠り、許される限りベッドにいることにした。

ある量の眠りの後、緊張していた間ずっと、読書から遠ざかっていたことを思い出し、さらに、猥雑な用件が近辺にうずまいていることもあって、自分の立ち位置を確認するために、本棚をじっとにらんで、二人の作家の著書を選んだ。今回は、須賀敦子と坂口安吾。

冒頭のは、坂口安吾の「ピエロ伝道者」から。

――― 一途、ほとばしっているか。

つきつけられたようだった。

一冊読み終えてすぐに、むさぼるように、須賀敦子「遠い朝の本たち」を読んだ。

日に日に緑濃くなる軽井沢。本を読んで泣いたのは久しぶりでした。

5月 11, 2009 :::言葉の泪壺::: |